古澤忠彦
表示
[[ファイル:|200px]] | |
生誕 |
1941年12月??日 日本 長崎県 |
所属組織 | 海上自衛隊 |
軍歴 | 1964年 - 1998年 |
最終階級 | 海将 |
除隊後 |
ディフェンスリサーチセンター研究員 ユーラシア21研究所研究員 |
古澤 忠彦(ふるさわ ただひこ、1941年〈昭和16年〉12月 - )は、日本の海上自衛官。最終階級は海将。舞鶴地方総監、統合幕僚会議事務局長 、横須賀地方総監を歴任した。長崎県出身[1]。
経歴
[編集]1941年(昭和16年)12月、長崎県佐世保市生まれ[2]。長崎県立長崎東高等学校を経て1964年(昭和39年)3月、防衛大学校第8期卒業、海上自衛隊入隊[3]。護衛艦「まきぐも」艦長、第34護衛隊司令、大湊地方総監部幕僚長、海上幕僚監部人事教育部長などを経て、1994年(平成6年)7月、舞鶴地方総監に就任。1996年(平成8年)3月には統合幕僚会議事務局長に就任し、日米防衛協力のための指針見直し問題に絡み、秋山昌廣(当時防衛局長)とともに中国を訪問して傅全有(中国人民解放軍総参謀長)らとの会談を行った[4]。1997年(平成9年)10月には横須賀地方総監に就任し、自衛隊への理解を深めてもらいたいと基地の一般開放を進めた[5]。1998年(平成10年)12月に退官[3]。
退官後はディフェンスリサーチセンター研究員[3]、ユーラシア21研究所研究員[6]等を務め、国防に関する意見を発信している。
略歴
[編集]- 1964年(昭和39年)3月:防衛大学校卒業、海上自衛隊に入隊
- 1979年(昭和54年)1月:2等海佐に昇任
- 1983年(昭和58年)
- 1985年(昭和60年)8月1日:海上幕僚監部総務部人事課人事班長兼要員班長兼検査班長
- 1986年(昭和61年)12月20日:第34護衛隊司令
- 1987年(昭和62年)12月2日:海上幕僚監部総務部総務課長
- 1989年(平成元年)
- 1991年(平成 3年)7月1日:統合幕僚会議事務局第1幕僚室長
- 1993年(平成 5年)7月1日:海上幕僚監部人事教育部長
- 1994年(平成 6年)7月1日:海将に昇任、第34代 舞鶴地方総監
- 1996年(平成 8年)3月25日:第30代 統合幕僚会議事務局長
- 1997年(平成 9年)10月13日:第32代 横須賀地方総監
- 1998年(平成10年)12月8日:退官
- 2013年(平成25年)4月29日:瑞宝中綬章受章[7]
主張
[編集]著書
[編集]共著
[編集]- 平松茂雄・古澤忠彦『これではダメだ!日本の海洋戦略―中国の海洋覇権と戦略なき日本』(日本政策研究センター、2008年)
- 平松茂雄・古澤忠彦『中国「海洋覇権」の脅威―今ここにある「亡国の危機」にいかに対処するか』(日本政策研究センター、2010年)
脚注
[編集]- ^ “同窓生人材バンク”. 防衛大学校同窓会. 2016年8月7日閲覧。
- ^ 「「ヘリ基地の建設、計画通り進める」 海自の古澤忠彦新総監」『朝日新聞』1994年7月7日付朝刊、京都面。
- ^ a b c “講師”. 菅原出事務所. 2016年8月7日閲覧。
- ^ 「秋山昌広防衛局長ら訪中へ 日米ガイドライン見直し問題」『朝日新聞』1997年6月18日付朝刊、2面。
- ^ 「土日と祝日に基地一般開放 海上自衛隊横須賀地方総監部」『朝日新聞』1998年4月30日付朝刊、神奈川面。
- ^ “委員”. 日本国際フォーラム. 2016年8月7日閲覧。
- ^ 『官報』号外第91号(平成25年4月30日)
- ^ 「改憲・護憲、県内でも双方訴え 体験談聴き反戦願う」『朝日新聞』2008年5月4日付西部版朝刊、31面。
- ^ a b “新防衛大綱が示すべき5つの基本(中編) わが国を防衛する固い決意と10年先の国際情勢をにらんだ防衛の基本方針”. 日経ビジネスオンライン. 2016年8月7日閲覧。
出典
[編集]- 防衛年鑑1995(防衛年鑑刊行会)
|
|
|
|
|
|