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吉井茂則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉井 茂則(よしい しげのり、1857年9月21日安政4年8月4日[1]) - 1930年昭和5年)10月20日[2])は、明治時代建築家逓信官僚。明治期の帝国仮議事堂の設計者として知られる[3]

経歴等

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高知県士族岡林茂基の二男[4]として生まれる。大阪府大参事吉井正澄の養子となる工学博士[要出典]

1871年(明治4年)、大蔵省に出仕、英国留学を命じられる。同年6月ロンドンに到着し、1874年に帰国[5]工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)に入学、第5回卒業生として1883年に卒業。印刷局陸軍省を経て、1887年(明治20年)、臨時建設局へ移り、議院の建設に従事する(同局廃止後は内務省土木局)。[6]

ドイツ人建築家アドルフ・ステヒミューラーと仮議事堂(木造)を設計し、1890年竣工。翌年、仮議事堂が焼失すると、60日で再建させた。

1892年(明治25年)より逓信技師。三橋四郎中京郵便局(旧京都郵便電信局)の設計に当たる(1902年竣工)。この間、1901年9月から翌年5月まで欧米各国を視察する[7]

当時、鉄道局は逓信省のもとにあったため、鉄道技師を兼任し、駅舎建設にも関わっている(1908年に鉄道院が設立されてからは鉄道院技師を兼任)。

1914年(大正3年)10月退官[8]

家族

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妻は、幕末期の海軍人で箱館戦争で投降し東京で獄死した松岡磐吉の娘、松岡臺(ダイ)[9]

栄典

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作品

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注釈

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  1. ^ 官吏進退・明治二十五年官吏進退二十四・叙勲一「内務技師吉井茂則叙勲ノ件」[1]。『人事興信録 初版』p431頁で安政8年8月4日生となっているのは誤りであろう。
  2. ^ 「建築雑誌」540号、本会記事。
  3. ^ 鈴木博之『日本の地霊(ゲニウス・ロキ)』(角川書店)。帝国議会仮議事堂の再建を60日で達成した実績で名を馳せる。
  4. ^ 『人事興信録 初版』p431[2]
  5. ^ 「建築局・陸軍二等技手吉井茂則建築局技師ニ転任ノ件」[3]、「内務技師吉井茂則叙勲ノ件」
  6. ^ 「内務技師吉井茂則叙勲ノ件」
  7. ^ 『日本の建築 明治大正昭和10』三橋四郎年譜。
  8. ^ 叙位裁可書・大正三年・叙位巻二十一[4]
  9. ^ 郵政建築における発注者の役割の変化に関する研究 博士論文 齋藤, 隆司 (京都大学 (Kyoto University), 2017年3月
  10. ^ 『官報』第4326号「叙任及辞令」1897年12月1日。
  11. ^ 『官報』第7678号「敍任及辞令」1909年2月2日。
  12. ^ 『官報』第667号「叙任及辞令」1914年10月21日。
  13. ^ 土木学会資料より[5]
  14. ^ 「古典系の貌」新建築(1976年6月号)西洋館を訪ねて
  15. ^ [6] (PDF)  第五回建築ツアー@京都三条
  16. ^ 木造ハーフティンバー付建屋をわずか40日の突貫工事で明治41年に竣工高架鉄道と東京駅[上] 著者: 小野田滋

参考文献

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  • 「逓信省仮庁舎建築に就きて」(「建築雑誌」259号、1908年7月)
  • 「逓信省仮庁舍建築に就て」(「通信協会雑誌」(2)、1908年9月)
  • 『ハンノーブヱル』郵便局建築に就て(「通信協会雑誌」、1908年11月)
  • 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810 
  • 明治以降を主とする左官構法の変遷に関する研究(鈴木光, 2014)
  • 古山精一『明治・大正期の逓信建築の研究 :モダニズム期以前の局舎と技術者達』(2013年)[7]

関連項目

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