名古屋港跳上橋
名古屋港跳上橋 | |
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情報 | |
旧用途 | 鉄道橋 |
設計者 | 山本卯太郎 |
施工 | 山本工務所 |
管理運営 | 名古屋港管理組合[1] |
竣工 | 1927年(昭和2年)[1] |
所在地 | 愛知県名古屋市港区入船1-6、愛知県名古屋市港区千鳥2-4地先 |
座標 | 北緯35度5分36.92秒 東経136度53分15.62秒 / 北緯35.0935889度 東経136.8876722度座標: 北緯35度5分36.92秒 東経136度53分15.62秒 / 北緯35.0935889度 東経136.8876722度 |
文化財 | 登録有形文化財、土木学会選奨土木遺産 |
指定・登録等日 | 1999年(平成11年)2月17日[1] |
名古屋港跳上橋(なごやこう(みなと)はねあげばし)は、愛知県名古屋市港区の堀川河口部の西側に位置し、1980年(昭和55年)まで運行していた東海道本線の貨物支線(通称「名古屋港線」)の旧1・2号地間運河に架設された鉄道用の跳上橋である。旧1・2号地間運河可動橋[1]、堀川可動橋とも称する。可動橋の第一人者である山本卯太郎の設計である。
概要
[編集]1909年(明治42年)に笹島駅と2号地の名古屋港駅を結ぶ臨港鉄道の東臨港線[2]が開通した。それを1号地まで延伸[注 1]する鉄道工事に伴って、1号地と2号地の間にあった運河での船舶の航行を可能にするよう、東神倉庫(現三井倉庫)の全額寄付[注 2]によって建設された。1927年(昭和2年)の竣工で、日本では現存する最古の跳上橋[注 3]である。当時は、頻繁に可動桁が昇降し、その下を船舶が行き来した。船舶の荷役作業もこの付近で行われ、蒸気機関車や貨物自動車が盛んに出入りした。その後、国内での輸送手段の変遷などにより、名古屋港駅以東が廃線となり、1987年(昭和62年)から可動部の桁を跳ね上げた状態で保存[注 4]されている。1999年(平成11年)2月17日、国の登録有形文化財に登録される[1]。2009年(平成21年)2月6日、経済産業省が認定する近代化産業遺産となる。2016年(平成28年)、土木学会選奨土木遺産に選ばれる[3]。
使用されなくなって20年余が過ぎた、2009年(平成21年)現在では、一部で枕木の脱落や橋桁のコンクリート剥離など損傷が目視で確認できる状態である。
構造
[編集]4連の桁により構成され、そのうち1径間が可動桁で、上部カウンターウエイト式である。カウンターウエイトの頂部は、鉄骨アームを介して鉄柱に連結され、可動桁が昇降しても、そのカウンターウエイトは常に直立するように装着されている。また、電動機の回転は、小歯車を経て、可動桁支点部にある大歯車に伝えられ、可動桁を昇降させる仕組みとなっている。隅田川駅跳上橋(東京都荒川区)などと同じメカニズムにより可動桁を昇降させる。
近代化への歩みと山本卯太郎
[編集]山本卯太郎は、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)で橋梁技術などを学び、4年間渡米して、可動橋・閘門・起重機などの商港の荷役に必要な工事の設計、製作並びに施工法を研究[4]した。名古屋港跳上橋の竣工時、東京の芝公園に居住[注 5]し、独自に新技術[4]を開発するなど、数学を用いて可動橋の複雑な構造を多面的に解析した。大正末期から昭和初期に多数の可動橋などを設計。日本独自の発展を遂げた可動橋分野に大きな足跡を残し、港湾の近代化に寄与した。満42歳で急逝してしまったが、その遺子[注 6]は、のちに船舶を安全かつ効率的に導く水先人として活躍した。なお、山本卯太郎は自らの文献[5]で、産業の合理化や都市計画の観点を次のように述べている[注 7]。
- 今や世を挙げて産業の合理化能率の増進を叫ばれるに至れるも、要は多量の物資を低廉迅速に産出せんとするもので、是が遂行に対しては可及的冗費を節約して最小の労銀と時間との許に、最大の製産を成すにあるのは今更言ふ迄もない事であるが、本邦の産業大都市に於て右の条件に添ふべく構成されてゐるものは皆無と云つて差支へない。
これらを踏まえ、産業都市に具備すべき事項として、次のようなことを提言している。
さらに、前出の文献[5]で、これらの提言について、次のような具体的な理由や現状を挙げている[注 9][注 7]。
- 船舶の荷役は固定橋の為に阻まれ、一度は艀に取り数多の固定橋下を潜つて目的地に送られるので、多大な冗費と動力と時間とを空費してゐる現状で、且つ対岸に達せんとするには、数十倍の時間と労力を費さなくば危険なる渡船によるの外なく、是れが為めには電車の乗客も何回となく乗り換へるためラッシュアワーの混雑は益々甚だしくなるので、今日の急務としては、一日も早く循環線路を建設して木津川尻無川安治川[注 9]には、それぞれ可動橋を架設して客貨の集散に便すれば、一面貨物の荷作を傷めず、漏出する事なく、又破損する事なく、数度の積み換へに要する冗費と時間とを節約して、安全且つ迅速にそれぞれ目的地に到達し得らるゝのである。又一面には歩行者に数十倍の距離を迂回せしめずしてスピード時代に添ふ如く、…(中略)…大砲の搬出には時日を要し間に合はなかつた事実を物語るものに他ならぬ。
環状線の鉄道を建設[注 10]することなどにより、貨物を安全かつ迅速に目的地に運ぶことができ、スピード時代に添うとしている。また、ラッシュアワーの混雑解消についても言及している。
港湾と跳上橋
[編集]1927年(昭和2年)11月発行の『土木建築工事画報』に、名古屋港跳上橋についての文献[6]があり、工業地帯または港湾付近地の跳上橋について、鈴木雅次の談話として、次のように記されている[注 11][注 12]。
- 此の様式は古き歴史を有する和蘭式跳上橋より転化して近代化せしものである。
- …(中略)…
- シカゴ市役所の式に比して外観必ずしも美なりと言ふを得ないが、工業地帯又は港湾付近地に於て其グロテスクの形体は寧ろ近代人審美の感触に共鳴するものが多いと思ふ。
- (鈴木雅次博士談)
諸元
[編集]- 橋長:63.4 メートル[1]
- 幅員:4.7 メートル[1]
- 可動部桁長:23.8 メートル
- 可動部支間長:19.6 メートル
- スパン割り:13.50 メートル + 2 × 13.45 メートル + 19.60 メートル
4 径間(内1 径間が可動桁) - 可動部重量:40 トン
- 可動部上昇時間:66 秒
- 可動部下降時間:45 秒
- 可動部の昇降には、15 馬力の電動機を用いる。さらに、予備発動機も備える。
- 軌条連結用動力:3 馬力[6]
- 基礎:井筒式[6][注 13]
- 竣工:1927年(昭和2年)
- 工期:1926年(大正15年)10月 - 1927年(昭和2年)6月20日[6]
- 起業者:愛知県名古屋港務所[6][注 14]
- 管理:名古屋港管理組合[1]
- 設計製作:山本工務所(山本卯太郎)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 当時、名古屋は紡績業が発展し、原料の綿花を名古屋港に直接輸入して保管するには、倉庫のある1号地までの鉄道延伸が必要となった。
- ^ 工費: 100,000 円
- ^ 鋼製跳開式可動橋
- ^ 可動橋としての使命を終えたのは、前年の1986年(昭和61年)である。
- ^ 男子(母: 尾張藩士の娘)を儲け、仕事も軌道に乗って順風満帆の日々を送った。
- ^ 学費の徴収がなく、全て官費で賄われる高等商船学校に進む。
- ^ a b 「勞」を「労」にするなど、新字体などに直す。
- ^ 英米のように低水位河川法案を設けることも提言している。
- ^ a b 大阪を例にとる。
- ^ 放射線状の路線や縦貫路線はあると前置きしている。
- ^ 本文献には、名古屋港第1第2号地間鉄道橋跳上橋として、諸元なども併記されている。
- ^ 「樣」を「様」にするなど、新字体などに直す。
- ^ 井筒基礎。ケーソン基礎の一種。
- ^ 名古屋港管理組合の前身
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 名古屋港跳上橋(旧1・2号地間運河可動橋) - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 国土交通省・名古屋港湾空港技術調査事務所・技調まんなか便り・Vol.11
- ^ “土木学会 平成28年度度選奨土木遺産 名古屋港跳上橋”. www.jsce.or.jp. 2022年6月9日閲覧。
- ^ a b 山本卯太郎 「鋼索型跳上橋の一考案」『土木学会誌』第14巻第6号、土木学会、1928年(昭和3年)12月。
- ^ a b 山本卯太郎 「産業都市発達と可動橋の現代性」『土木建築工事画報』第6巻第6号、工事画報社、1930年(昭和5年)6月。
- ^ a b c d e 鈴木雅次 「名古屋港の新跳開橋」『土木建築工事画報』第3巻第11号、工事画報社、1927年(昭和2年)11月。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 名古屋港跳上橋(旧1・2号地間運河可動橋) - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 名古屋港跳上橋 - 名古屋市港区役所区政部