名和顕孝
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永禄4年(1561年) |
死没 | 慶長13年(1608年)11月25日[1] |
官位 | 従五位下[1]、左兵衛尉、伯耆守[1] |
主君 | 島津氏 → 豊臣秀吉 → 小早川隆景 |
氏族 | 名和氏流宇土氏(伯耆氏) |
父母 | 父:名和行直[1] |
兄弟 | 顕輝、行良 |
妻 | 福(朽網鑑康の娘、法名:持松院殿久室妙昌大姉)[2] |
子 | 顕武、長興、ドナ=ジョアナ(大矢野種基室)、顕貞 |
名和 顕孝(なわ あきたか)は、戦国時代の武将。宇土名和氏の6代当主。宇土城主。『まんが日本昔ばなし』の「孝行娘」に登場する「若殿さま(伯耆守顕孝)」と同一人物である[3]。
概要
[編集]1579年(天正7年)、島津氏に対して城氏と共に接近[4]。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉による島津氏征伐に巻き込まれ降伏し、豊臣軍に加勢して功を挙げた[4]。これにより秀吉から本領を安堵されるが、同年に起きた肥後国人一揆に際して、肥後国主に封ぜられた佐々成政へ合力せず中立を保ったことを咎められる。顕孝はみずから釈明すべく大坂へ赴くが、城代を任せた弟の名和顕輝が秀吉軍の開城勧告を拒否したため討伐され改易となった[5]。1588年(天正16年)からは筑前国の小早川氏に属した[4]。
跡目は子の長興が継ぎ、柳川藩主・立花宗茂に召し抱えられ、「伯耆(ほうき)」を称した。子孫は柳川藩士として存続し、幕末に至って再び「名和(なわ)」を称した。時の当主・名和長恭が男爵に叙せられ、名和神社の神職となった。
脚注
[編集]- ^ a b c d 今井尭ほか編 1984, p. 345.
- ^ 矢野一貞『筑後国史 中巻』1927年、494頁。doi:10.11501/1175327 。
- ^ まんが日本昔ばなし 各話データベース No.0449 こうこうむすめ 孝行娘。ただし永正14年との伝承もあり、この場合宇土名和氏初代の顕忠となる。
- ^ a b c d 阿部 & 西村 1990, p. 587.
- ^ 宇土市史編纂委員会『新宇土市史 通史編第二巻』(宇土市、 2007年)
参考文献
[編集]- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。
- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。