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向山均

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向山均

向山 均(むこうやま ひとし、1891年明治24年)10月29日[1] - 1978年昭和53年)7月5日[1])は、日本の海軍軍人政治家華族。最終階級は海軍造兵中将貴族院男爵議員向山慎吉の子。

経歴

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東京市海軍士官向山慎吉の長男として生まれる[2][3]。父の死去に伴い、1911年(明治44年)1月12日、家督を相続し男爵を襲爵[1][1][4]。同年7月、東京帝国大学工科大学に入学し、1914年(大正3年)3月、海軍造兵学生となり同年7月に東京帝大工科大学電気科を卒業した[1][3]

1914年7月10日、海軍造兵中技士に任官し横須賀鎮守府附となる[1]。以後、呉海軍工廠水雷部副部員、横須賀海軍工廠造兵部副部員、扶桑乗組、呉工廠水雷部部員、英国駐在、仏国駐在、兼造兵監督官、呉工廠検査官兼水雷部部員、兼海軍兵学校教官、呉工廠水雷部部員、兼呉工廠電気実験部部員、艦政本部員(一部三課)兼造兵監督官、兼連合艦隊司令部附、呉工廠電気部部員、兼海軍砲術学校教官、兼呉工廠電気実験部部員などを経て、1930年(昭和5年)12月1日、海軍造兵大佐に昇進[1]。呉工廠電気部長、海軍技術研究所電気研究部長を務め、1936年(昭和11年)12月1日、海軍造兵少将に進んだ[1][5]。その後、横須賀工廠造兵部長を務め、1940年(昭和15年)11月15日、海軍造兵中将に昇進し艦政本部出仕となる[1][5][6]。同年12月16日待命となり、同月21日に予備役に編入された[1][5][6]

1941年(昭和16年)7月19日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選[7][8]公正会に所属して活動し、1946年(昭和21年)4月17日に貴族院議員を辞職した[7][9][10]。その他、日本電気 (株) 本社顧問、(株) 小穴製作所専務取締役、商工省参与、内閣委員・企画院勤務、軍需省委員などを務めた[1][7]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[11]

栄典

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親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本海軍史』第9巻、582-583頁。
  2. ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』下巻、707頁。
  3. ^ a b 『人事興信録 第14版 下』ム7頁。
  4. ^ 『官報』第8266号、明治44年1月13日。
  5. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』345頁。
  6. ^ a b 『日本海軍将官辞典』369頁。
  7. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』86頁。
  8. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、50頁。
  9. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、55頁。
  10. ^ 『官報』第5796号、昭和21年5月14日。
  11. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、42頁。NDLJP:1276156 
  12. ^ 『官報』第3684号「叙任及辞令」1924年12月2日。
  13. ^ 島村久 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  14. ^ 島村久(読み)しまむら ひさしコトバンク
  15. ^ 向山均『華族家庭録. 昭和11年12月調』
  16. ^ 島村元(読み)しまむら はじめコトバンク

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第9巻、第一法規出版、1995年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。


日本の爵位
先代
向山慎吉
男爵
向山(慎吉)家第2代
1911年 - 1947年
次代
華族制度廃止