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向山慎吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

向山 慎吉(むこうやま しんきち、1856年10月12日安政3年9月14日[1][2] - 1910年明治43年〉12月18日[1][2])は、日本の海軍軍人華族海軍中将従三位勲二等功三級男爵向山均の父。

黄海海戦時の「松島」副長のとき、重傷を負った三浦虎次郎三等水兵が向山に「まだ定遠は沈みませんか」と訊ねた話が伝えられて大きな反響を呼び、軍歌「勇敢なる水兵」が作られた。

経歴

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幕臣一色半左衛門の三男として生まれ、幕臣向山黄村の養子となる[1]沼津兵学校を経て、1878年(明治11年)7月、海軍兵学校5期)を卒業し、1881年(明治14年)1月、海軍少尉任官[1]。「筑波分隊長、「高千穂」回航委員、同砲術長、佐世保鎮守府建設委員などを経て、海軍大学校で乙号学生として学んだ[1]。「海門」副長、海軍参謀部第1課員などを歴任し、日清戦争では「松島」副長として出征し、「龍田艦長となった[1][3][4]

さらに、「筑紫」艦長、「大和」艦長、「高雄」艦長、「秋津洲」艦長、イギリス公使館付、「浅間」艦長、「敷島」艦長、横須賀鎮守府参謀長などを経て、1902年(明治35年)5月、海軍少将に進級[1][3][4]日露戦争時は舞鶴工廠長、佐世保工廠長であった[1][3][4]1905年(明治38年)11月、海軍中将となり、竹敷要港部司令官を勤め、1910年12月、休職となり死去した[1][4]

1907年(明治40年)9月、男爵の爵位を叙爵し、華族となる[1]

栄典

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位階

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勲章等

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外国勲章佩用允許

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親族

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  • 先妻 銀子 – 養父二女(1882年没)[2]
  • 後妻 静 - 山高信離長女[2]
  • 長男 向山均(海軍技術中将)[1][2]
  • 三男・田沢坦 - 田澤昌孝の養子となる[2][18]。東京国立博物館評議員、武蔵野美術大学名誉教授、元奈良国立文化財研究所所長[19]
  • 娘・堉 - 医師・紋谷正夫の妻[2]。東京女高師附属高女出身。
  • 娘・幸 - 医師・賀屋俊吉の妻[2]

脚註

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸海軍総合事典 第2版』257頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成 下巻』707頁。
  3. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』31頁。
  4. ^ a b c d 『日本海軍将官辞典』369頁。
  5. ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。
  6. ^ 『官報』第1033号「叙任」1886年12月8日。
  7. ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
  8. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
  9. ^ 『官報』第6729号「叙任及辞令」1905年12月4日
  10. ^ 『官報』第8250号「叙任及辞令」1910年12月20日。
  11. ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。
  12. ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
  13. ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
  14. ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
  15. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  16. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  17. ^ 『官報』第8037号「叙任及辞令」1910年4月11日。
  18. ^ 向山均『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  19. ^ 田沢坦東京文化財研究所

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 下巻』社団法人霞会館、1996年。
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
向山(慎吉)家初代
1907年 - 1910年
次代
向山均