和田彦次郎
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和田 彦次郎(わだ ひこじろう、安政6年6月10日(1859年6月10日) - 昭和14年(1939年)7月12日[1][2])は、日本の衆議院議員、農商務官僚、貴族院勅選議員。正三位、勲一等。墓所は永平寺東京別院長谷寺。
経歴
[編集]備後国双三郡三良坂村(現在の広島県三次市)出身。明治3年(1870年)、和田村の豪農和田氏の養子となった。広島の遷喬舎という英語学校で学んだ後、神戸に出て英米人について学んだ。明治13年(1880年)、大阪で中島信行・古沢滋・河津祐之・草間時福らとともに国会期成同盟結成に参加し、『日本立憲政党新聞』の発行にあたった。
明治25年(1892年)、第2回衆議院議員総選挙に国民協会から出馬し、当選[3]。以後、第8回衆議院議員総選挙まで7回連続当選を果たした。明治31年(1898年)、議員在職のまま農商務省農務局長に就任。明治36年(1903年)5月、商工局長に転任。さらに9月に農商務総務長官に昇任した(12月に農商務次官と改称)。明治40年(1907年)に次官を退任した後は、日本大博覧会事務総長、日英博覧会事務官長を歴任した[4]。
明治44年(1911年)8月24日、貴族院議員に勅選[5]。死去するまでその職にあった[1][6]。また芸備鉄道創設時の社長を務めた[4]。
親族
[編集]- 妻 壽万 昭和36年3月15日没 享年92歳
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
脚注
[編集]- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』178頁。
- ^ 『官報』第3758号、昭和14年7月17日。
- ^ 『立身致富信用公録』p.26
- ^ a b 『広島県紳士名鑑』双三郡之部 p.1
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、19頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、46頁。
- ^ 『官報』第7614号「叙任及辞令」1908年11月11日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
[編集]- 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。
- 『立身致富信用公録 第14編』国鏡社、1903年。
- 『広島県紳士名鑑』国民教育普及社、1917年。
- 『貴族院要覧(丙) 昭和13年12月増訂』貴族院事務局、1935年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
公職 | ||
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先代 安広伴一郎 |
農商務総務長官 1903 |
次代 農商務次官に改称 |
先代 農商務総務長官から改称 |
農商務次官 1903 -1907 |
次代 久米金弥 |