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和田秀穂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
和田 秀穂
旅順要港部司令官時代
生誕 1886年1月2日
日本の旗 日本 鹿児島県
死没 (1972-04-03) 1972年4月3日(86歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1907年 - 1937年
最終階級 海軍中将
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和田 秀穂(わだ ひでほ、1886年明治19年)1月2日 - 1972年昭和47年)4月3日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

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鹿児島県出身。日本基督教会牧師和田秀豊の二男として生まれる。海城中学校を経て、1906年11月、海軍兵学校34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍大学校乙種、同専修科を卒業し、「高崎丸分隊長となる。「松江」航海長などを経て、「若宮丸」乗組として第一次世界大戦におけるドイツとの戦闘に従軍。イギリスフランス出張、イタリア出張、「若宮」兼横須賀海軍航空隊教官などを経て、1919年12月、海軍大学校(甲種17期)を卒業した。

以後、横須賀鎮守府付(軍務局航空部)、海軍省軍務局第3課局員、霞ヶ浦航空隊副長、佐世保航空隊司令横須賀航空隊司令、「鳳翔」・「赤城」の各艦長、横須賀鎮守府付、海軍航空廠飛行機部長などを歴任し、1932年12月、海軍少将に進級。霞ヶ浦航空隊司令、第一航空戦隊司令官旅順要港部司令官などを歴任し、1936年12月、海軍中将に昇進。軍令部出仕を経て1937年12月に待命となり予備役に編入された。著書に『海軍航空史話』がある。

青島爆撃

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大日本帝国海軍水上機母艦若宮」所属の2機のモーリス・ファルマン水上機青島1914年

1914年、海軍航空隊に所属していた和田は、フランス製モーリス・ファルマン水上機の操縦士として第一次世界大戦に参加している。搭乗したのは輸送船を改造した水上機母艦「若宮丸」で、70馬力(2人乗り)と100馬力(3人乗り)のファルマン機を各1機、解体した70馬力2機の計4機を搭載していた。

若宮は1914年8月23日横浜を出港し、9月1日膠州湾外に到着した。悪天候のため待機を余儀なくされ、ようやく5日に100馬力で3人乗りのファルマン機の操縦士として初出撃を行った。湾内には巡洋艦「カイゼリン・エリザベート」と駆逐艦「S90」、他小型砲艦を確認し、帰途で青島市の無電所を爆撃している。このとき、地上から激しい銃撃を受けてファルマン機の翼の小骨が折れ、翼布がはがれ始めたので、海面を這うように帰還した。 9月6日青島要塞の偵察に出撃。イルチス砲台を爆撃し、付近の兵舎から白煙があがるのを視認している。16日前後から爆撃の主目標をS90に置いたが、最後まで一発も命中しなかった。一度、8サンチ爆弾10発をもって狙ったが急旋回され、そばにいた水雷敷設艇を撃沈したのみであった。 9、10月の二ヶ月間に49回の飛行を行い(1回約1時間半)、199発の爆弾(8サンチ、12サンチの二種)を投下した。そのうち命中したのは8発(無電所、発電所、兵舎、水雷敷設艇など)で、16発が不明となっている。11月23日加藤定吉第二艦隊司令長官より感状を贈られている。

この爆撃は、機体に紐で吊った爆弾をその紐を切って落とす方法で行った。敵機に遭遇した場合は拳銃で撃墜するつもりであったという。一連の作戦行動は日本初の航空戦であった。

家族親族

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参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 『世界の戦史 9 第一次世界大戦』人物往来社、1967年。
  • 水交会編『回想の日本海軍』原書房、1985年。
  • 伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年。