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和田誉終

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

和田 誉終(譽終、わだ たかもと、1842年4月27日(天保13年3月17日[1])– 1905年明治38年)12月31日[1][2][3])は、幕末の紀州藩士、明治期の弁護士政治家衆議院議員。旧姓・岡崎[1]

経歴

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紀伊国名草郡森小手穂村[1]和歌山県名草郡岡崎村海草郡岡崎村を経て現和歌山市)で岡崎家に生まれ[1]、幼少時に[1]同郡吉田村[4]宮村[1]、海草郡宮村を経て現和歌山市)の紀州藩[注 1]・和田東馬の長男として母子ともに入籍した[1]。漢学者の養父などに漢学を師事し[1]、その後、フランス法を学んだ[1][2][3]

1869年(明治2年)津田又太郎(津田出)の藩政改革の際に海部郡民政局書記に就任[4][5]廃藩置県後、和歌山県権少属[4][5]となり伊都、那賀、新宮での勤務を経て[1]、県聴訟課[3][5]に出仕したが1874年(明治7年)に辞職[1]。1875年(明治8年)名草郡山口郷小区長に就任し地租改正を担当したが中途で辞任[4]。1876年(明治9年)代言人規則が制定され、その免許を得て東京地方裁判所所属代言人となった[1][3][4]

1879年(明治12年)3月、初代和歌山県会議員に当選し、1880年(明治13年)、1884年(明治17年)に再選され、1888年(明治21年)2月に退任した[1][3]。1889年(明治22年)1月、補欠選挙で再選され[3]、1890年(明治23年)7月、衆議院議員に当選のため辞任した[1]。県会議員に通算4期・11年7ヵ月在任し、この間、常置委員を務めた[1][2]

1890年7月、第1回衆議院議員総選挙で和歌山県第1区から出馬して陸奥宗光とともに当選した[1][2][3]第2回総選挙には出馬せず、名古屋市で弁護士を開業した[1][3]。1897年(明治30年)の郡制実施に際して地元からの要請で海草郡会議員に当選し、初代郡会議長を務めた[1][2][3]

また、授産を目的とした徳義社が和歌山県士族により組織された際には副社長となり[4][5]、その他、和歌山四十三国立銀行支配人、和歌山県農工銀行取締役兼支配人、同頭取を務めた[1][2][3][5]

脚註

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注釈

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  1. ^ 『明治新立志編』185頁では、紀州藩国老・水野丹後守正知の家臣。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『和歌山県議会歴代議員名鑑』9-10頁。
  2. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』718頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『和歌山県史 人物』538頁。
  4. ^ a b c d e f 『明治新立志編』185-186頁。
  5. ^ a b c d e 『日本帝国国会議員正伝』344頁。

参考文献

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  • 木戸照陽編『日本帝国国会議員正伝』田中宋栄堂、1890年。
  • 篠田正作編『明治新立志編』鍾美堂、1891年。
  • 『和歌山県議会歴代議員名鑑』和歌山県議会、1969年。
  • 和歌山県史編さん委員会編『和歌山県史 人物』和歌山県、1989年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。