国包 (掛川市)
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国包 | |
---|---|
北緯34度40分0.7秒 東経138度3分46.38秒 / 北緯34.666861度 東経138.0628833度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 静岡県 |
市町村 | 掛川市 |
区域 | 大東区域 |
地区 | 千浜地区 |
人口 | |
• 合計 | 253人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
437-1414[2] |
市外局番 | 0537 (掛川MA)[3] |
ナンバープレート | 浜松 |
※座標は掛川市国包集会場付近 |
地名の由来
[編集]郷土雑誌によると、当地に住んでいた鍛冶の名にちなむ。
地理
[編集]菊川平野の南部の牛淵川が菊川に合流する地点の南に位置する。
歴史
[編集]江戸時代から1889年(明治22年)まで城東郡国包村として存在した。江戸時代には横須賀藩に属していた。石高は「元禄高帳」によると293石余であり、「天保郷帳」「旧高旧領」によると411石余であった。「遠淡海地志」によれば戸数40戸であった。1832年(天保2年)〜1847年(弘化3年)まで東海道掛川宿代助郷であった。稲作を中心に五穀のほかダイコン・からし菜・シロウリ・ウリ・トウガン・スイカ・ナス・サトウキビ・木綿などを栽培した。用水は牛淵川を利用した。鎮守は鹿島大明神で、ほかに寺社は春日大明神社・天神社・天王社・天白社・臨済宗竜泉寺があった。1868年(明治元年)に、駿府藩領(同2年静岡藩と改称)、同4年静岡県、浜松県を経て同9年再び静岡県に所属した。1889年(明治22年)千浜村の大字となる。1891年(明治24年)の戸数は、48戸、人口289人、船数2船であった。
沿革
[編集]- 1832年(天保2年)〜1847年(弘化3年) 東海道掛川宿代助郷となる。
- 1868年(明治元年) 駿府藩領となる。
- 1876年(明治 9年) 静岡県に属する。
- 1889年(明治22年)4月1日 町村制施行に伴い城東郡千浜村の大字となる。
- 1896年(明治29年)4月1日 郡の統合により小笠郡の所属となる。
- 1956年(昭和31年)8月1日 小笠郡大浜町の大字となる。
- 1973年(昭和48年)4月1日 小笠郡大東町の大字となる。
- 2005年(平成17年)4月1日 掛川市の大字となる。
世帯数と人口
[編集]2018年(平成30年)11月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
大字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
国包 | 83世帯 | 253人 |
小・中学校の学区
[編集]市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[4]。
番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 掛川市立千浜小学校 | 掛川市立大浜中学校 |
交通
[編集]- 鉄道
- 鉄道は通っていない。
- バス
- しずてつジャストライン掛川大東浜岡線国安バス停が最寄。
- 道路
- 地域内ではないが、静岡県道372号線、静岡県道247号線が付近を走る。
施設
[編集]- 国包集会場
- 掛川市役所大東支所(三俣)
その他
[編集]日本郵便
[編集]警察
[編集]町内の警察の管轄区域は以下の通りである[6]。
番・番地等 | 警察署 | 交番・駐在所 |
---|---|---|
全域 | 掛川警察署 | 大東交番 |
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 編纂委員会編 (1982). 角川日本地名大辞典. 22 静岡県. 角川書店. p. 382. ISBN 978-4040012209