国博士
国博士(くにはかせ/くにのはかせ/くにはくし)は、
概要
[編集]大化の改新期の国博士
[編集]『日本書紀』によると、皇極天皇4年6月(645年)、蘇我本宗家の滅亡後、孝徳天皇践祚・中大兄皇子任皇太子の日に沙門(のりのし)旻法師と高向史玄理が任命された官職で[1]、左右大臣・内臣とともに設置されている。2名は遣唐使として入唐し、大陸で学んでいる。唐から輸入した新制度・政策を立案し、推進する目的で設置され、政治顧問として国政全般の諮問に応える職であったと推定される。
博士(はかせ)高向玄理(たかむくのぐゑんり)と釈僧(ほふしそう)旻(みん)とに詔して,八省(やつのすぶるつかさ)百官(もものつかさ)を置かしむ
とあり[2]、これを最後に,この官名は史書には現れなくなっている。
律令制下の国博士
[編集]律令制で諸国に1名ずつ置かれ、教師として、国司の監督の下で国学の学生(がくしょう)の教育・指導や課試を担当した。外国使臣の応接にもあたり、四度使として、任国の行政にも参画したという。
選叙令によると、式部省の判定による現地採用を原則とし、場合によっては傍の国(隣国)からの採用もやむを得ないとしたが、『続日本紀』によると、大宝3年(703年)には、従来(温故知新)の例からして国博士の任に適する人材はまれであり、傍の国にも該当者が存在しない場合は、省に申告し、(太政官の)処分を経た上で中央から任命することになった[3]。これにより、国博士の現地採用は有名無実化し、中央の大学寮の学生などから任命することが一般化した。
具体的に述べると、和銅元年4月(708年)の制では、「朝」(中央)より補せられた者の「考選」は史生と同じにすると、「土人(くにひと)・傍国(ちかくのくに)」の採用と区別されていたが[4]、神亀5年8月(728年)の太政官奏上には、すべて「八考(8年間)を以て成選(じょうせん[5])す」となり、博士1人で三四ヶ国を兼任することが可能になった[6]。宝亀10年閏5月(779年)の太政官奏上では学生の食糧持参のことも考えて、再度国ごとに1名とされ、「六考(6年間)成選」に変更されている[7]。また、霊亀2年5月(716年)の制には、大学寮の学生で、修養不足なものについては、国博士に任命してはならぬ、としている[8]。
待遇は諸国の史生に準じ[9]、当国から選ばれる場合は徭役が,隣国から派遣される場合は課役のすべてが免除され、職分田6段・事力 ・公廨稲が支給されていた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『岩波日本史辞典』p348、監修:永原慶二、岩波書店、1999年
- 『角川第二版日本史辞典』p292、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店
- 歴史読本臨時増刊入門シリーズ『日本古代史の基礎知識』新人物往来社、1992年より、「日本古代史の基本用語234」
- 『日本の歴史2 古代国家の成立』、直木孝次郎:著、中央公論社、1965年
- 『日本書紀』(四)、岩波文庫、1994年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『続日本紀』1・2・3・5 新日本古典文学大系13 岩波書店、1989年、1990年、1992年、1998年
- 『続日本紀』全現代語訳(上)・(中)・(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年、1995年