国定謙男
国定 謙男 | |
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左から国定、緋桜子(長女)、喜代子(妻) | |
生誕 |
1913年2月10日 日本 岡山県 |
死没 |
1945年8月22日(32歳没) 日本 茨城県土浦市 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1934 - 1945 |
最終階級 | 海軍少佐 |
国定 謙男(くにさだ かねお、1913年(大正2年)2月10日 - 1945年(昭和20年)8月22日)は、日本の海軍軍人。太平洋戦争の敗戦を受けて、一家四人で自決した海軍少佐である。
来歴
[編集]略歴
[編集]岡山県出身。幼少期に北海道へ移り、室蘭中学4年修了で海軍兵学校入校。1932年(昭和7年)11月卒業。国定は海兵60期で、席次4番の恩賜組である。
国定は第26期飛行学生を修了した搭乗員であった。1937年(昭和12年)、海軍中尉で空母「龍驤」乗組であった国定は、第二次上海事変に出征し、日本国内で度々報じられる奮戦振りであった[1]。岩国海軍航空隊飛行長として太平洋戦争の開戦を迎え、第12連合航空隊参謀、三重海軍航空隊教官、練習連合航空隊参謀などを歴任した。
この間に訓練を担当した第13期飛行予備学生は、特攻隊員として多くが戦死している。国定は一時、病のため軍務を離れるが、軍令部勤務となり戦備、補給を担当する第二部に属し戦備計画を担当していた[2]。日本のポツダム宣言受諾を受けて、茨城県土浦市善応寺の佐久良東雄の墓所付近で妻、長男、長女とともに自決した。
自決
[編集]終戦間際の国定は徹底抗戦論者で、和平派の海相・米内光政の暗殺を謀っていた[2]。しかし決行には至らず、敗戦を迎えた1945年(昭和20年)8月15日夜、有力な抗戦論者であった大西瀧治郎を官舎に訪問している。しかし大西は国定らを前に抗戦論を述べることはなく、その夜のうちに自決した。国定らは大西の自決をまだ知らなかったが、国定はその夜のうちに同期生に自決の意思を打ち明けている[1]。
自決時の国定は、軍装に金鵄勲章、記章、参謀飾緒を佩用した姿であった。遺書には妻が説得にもかかわらず死を希望したことが記され、子を連れて行くことに対し「愚カナル親心ヲ察シ乞フ」とあった。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 生出寿『海軍おもしろ話 戦前・前後編』徳間文庫 ISBN 4-19-890213-5
- 草柳大蔵『特攻の思想 大西滝治郎伝』文藝春秋、1973年
- 半藤一利『戦士の遺書』文春文庫 ISBN 4-16-748306-8
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会