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国貞廉平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
国貞直人から転送)

国貞 廉平(くにさだ れんぺい、天保12年3月22日1841年5月12日〉 - 明治18年〈1885年1月18日[1][2])は、日本武士長州藩士[2])、官僚愛知県令。諱・景孝[2]、景廉、景行。通称・鶴之進、直之進、直人[2]、晩年には廉平[2]。変名・逸水清助。雅号・韓山[1][2]

経歴

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天保12年(1841年3月22日長門国萩城松本村で長州藩士・国貞要助の嫡男として生まれた[1][3]

藩校明倫館で学び、万延元年(1860年江戸有備館に入り、大橋訥庵の指導も受けた[1][2]文久2年(1862年)藩世子・毛利元徳の近侍となる[3][2]

慶応2年(1865年1月、鎮静会議員に加わり内乱の収拾に尽力[3]。慶応2年(1866年5月干城隊頭取兼文学寮都講となり、さらに国政方を務めた[1][2]幕長戦において同慶応2年末に小倉藩との和議を担当[1][3]。慶應3年(1867年11月、上京諸隊の参謀を務めた[3]

明治元年(1868年)に帰藩し、御用所役に就任。以後、参政・山口藩大参事[2]、同少参事などを歴任[1]。明治2年(1869年)12月に諸隊脱走兵反乱への対応を行う[3]。明治7年(1874年)、内務省に出仕し、名東県参事愛知県参事、同大書記官を歴任[1][2]

明治13年(1880年3月8日、愛知県令に就任[2]自由民権運動の最盛期であり、県会と衝突を重ねたが、備荒儲蓄法、公娼・席貸営業廃止運動については県会と協力して推進した[4]

明治18年(1885年1月18日、在任中に肺炎のため病死した[1][2]

栄典・授章・授賞

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 日本歴史学会編 1981, pp. 358–359.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 吉田祥朔 1976, p. 106.
  3. ^ a b c d e f 家臣人名事典編纂委員会編 1989, p. 281.
  4. ^ 歴代知事編纂会編 1991, p. 583.
  5. ^ 『官報』第463号「叙任及辞令」1885年1月19日

参考文献

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  • 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』 第6巻、新人物往来社、1989年10月。ISBN 9784404016515NCID BN01698433全国書誌番号:90004658 
  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年9月。ISBN 4642031146NCID BN00412375 
  • 秦郁彦 編『日本官僚制総合事典 : 1868-2000』東京大学出版会、2001年11月。ISBN 4130301217NCID BA54424693 
  • 安岡昭男 編『幕末維新大人名事典』 上、新人物往来社、2010年5月。ISBN 9784404037640NCID BB02296306 
  • 吉田祥朔『近世防長人名辞典』(増補)マツノ書店、1976年6月1日。 NCID BN02934961 
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年11月。 NCID BN06916098