園基顕
表示
時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
---|---|
生誕 | 暦仁元年(1238年) |
死没 | 文保2年12月26日(1319年1月18日) |
改名 | 基世(初名)→基顕 |
官位 | 正二位、参議、右衛門督 |
主君 | 四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇→後醍醐天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流園家 |
父母 | 父:園基氏、母:藤原隆忠の娘 |
兄弟 | 基有、基重、基顕、西園寺公相室、言性、一条実経室、花山院通雅室 |
妻 | 明清法印の娘 |
子 | 基兼、基藤、為中光仲、久我長通室 |
園 基顕(その もとあき)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。参議・園基氏の子。母は左大臣・藤原隆忠の娘。初名は基世。官位は正二位・参議、右衛門督。園家2代当主。父・基氏が若くして辞官出家したため、基顕は昇進が遅く苦労した。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 寛元4年(1246年)3月8日、叙爵[1]。
- 建長4年(1252年)1月23日、従五位上に昇叙[2]。同年4月9日、侍従に任ぜられる。
- 建長5年(1253年)12月5日、左少将に任ぜられる。
- 建長6年(1254年)1月13日、常陸権介を兼ねる。
- 建長7年(1255年)1月5日、正五位下に昇叙[3]。
- 康元元年(1256年)1月26日、従四位下に昇叙[4]。同年2月6日、左少将に改めて任ぜられる。
- 正嘉元年(1257年)閏3月27日、右中将に転任。同年4月11日、左中将に転任。
- 正嘉2年(1258年)4月6日、従四位上に昇叙。同年7月21日、備前守を兼ねる[5]。
- 正元元年(1259年)1月6日、正四位下に昇叙[6]。同月21日、播磨守を兼ねる[7]。
- 弘長2年(1262年)11月4日、得替。
- 建治元年(1275年)12月26日、蔵人頭に補される。同時に禁色を許される。
- 弘安元年(1278年)3月1日、母の喪に服す。同年10月4日、蔵人頭を止める。同年8月7日、復任する。
- 弘安3年(1280年)3月8日、蔵人頭に還補され、同月13日に禁色を許される。
- 弘安4年(1281年)2月1日、参議に任ぜられる。
- 弘安5年(1282年)4月8日、従三位に叙される。11月28日、父・基氏の喪に服す。
- 弘安6年(1283年)3月28日、復任した。弘安7年(1284年)1月13日、参議を辞した。同月16日、右衛門督に任ぜられ、19日には本座を許された。5月6日には正三位に昇叙。
- 正応元年(1288年)7月11日、右衛門督を止める。同月16日、従二位に昇叙。
- 正応4年(1291年)3月25日、正二位に昇叙。
- 永仁2年(1294年)11月18日、出家。
- 文保2年(1318年)12月26日、薨去。享年81。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 弘安4年(1281年)に基顕が参議となった時以降の記事。
- 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「園基顕」および「園基氏」の項。
|
|
|