一条実経
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一条実経(天子摂関御影) | |
時代 | 鎌倉時代 |
生誕 | 貞応2年10月2日(1223年10月27日)[1] |
死没 | 弘安7年7月18日(1284年8月30日) |
改名 | 行雅、行雄、行祚(法名) |
別名 | 円明寺関白 |
諡号 | 円明寺殿、後一条入道関白 |
墓所 | 京都府京都市東山区東福寺 |
官位 | 従一位、摂政、関白、左大臣 |
主君 | 後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇 |
氏族 | 藤原北家九条流一条家 |
父母 | 父:九条道家、母:西園寺掄子 |
兄弟 | 教実、二条良実、頼経、一条実経、円実、慈源、法助、竴子、仁子、佺子 ほか |
妻 |
坊門有信の娘、良性の娘 藤原定高の娘、園基氏の娘 平成俊の娘 |
子 | 家経、実家、師良、ほか |
一条 実経(いちじょう さねつね)は、鎌倉時代の公卿。従一位、摂政、関白、左大臣。五摂家の一つ一条家の祖。号に円明寺殿、後一条入道関白など。法名に行雅、行雄、行祚などがある。通称は円明寺関白(えんみょうじ かんぱく)。
九条道家の四男に生まれる。母は西園寺公経女准三后綸子[2]。長兄に九条教実、次兄に二条家祖の二条良実、三兄に鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経がいる。
来歴
[編集]寛喜4年(1229年)に元服して正五位下に叙せられる。父・道家と不仲だった兄・良実とは対照的に父に溺愛され、仁治3年(1242年)に一条室町の第を譲られる。寛元4年(1246年)1月28日に関白・藤原氏長者。翌日に後嵯峨天皇が譲位したため、後深草天皇の摂政となる。また父の意向で関東申次の職務の一部を代行する。ところが同年に鎌倉で起こった兄で将軍の頼経を巡る一連の騒動(宮騒動)に連座して、翌寛元5年(1247年)1月に摂政を罷免される。しかし、父の死後に不仲であった良実と和解することで復権を図る。文永2年(1265年)に関白に再任されるが、2年後に辞任。その後、山城国山崎の円明寺で晩年を過ごし、弘安7年(1284年)7月18日薨去。享年62。墓は京都東福寺にある。
官途
[編集]※日付は旧暦
- 寛喜4年(1229年)- 1月21日 元服して正五位下に叙し禁色を聴される。1月30日 右近衛少将に任官。
- 貞永元年(1229年)- 3月24日 右近衛中将に転任。4月7日 従四位下に昇叙。
- 貞永2年(1230年)- 1月24日 播磨権守を兼任。
- 天福元年(1233年)- 8月8日 従三位に昇叙。
- 文暦元年(1234年)- 12月26日 正三位に昇叙。
- 嘉禎元年(1235年)- 10月2日 権中納言に転任、右近衛中将の兼任は元の如し。
- 嘉定2年(1236年)- 6月9日 権大納言に転任。11月22日 正二位に昇叙。
- 嘉定4年(1238年)- 2月6日 左近衛大将を兼任。2月9日 左馬寮御監を兼帯。
- 仁治元年(1240年)- 10月20日 右大臣に転任。10月24日 左近衛大将と左馬寮御監は元の如し。
- 仁治2年(1241年)- 11月8日 左近衛大将を辞す(左馬寮御監もか?)
- 寛元元年(1243年)- 8月10日 皇太子久仁親王(後の後深草天皇)の東宮傅を兼任。
- 寛元2年(1244年)- 6月13日 左大臣に転任、東宮傅の兼任は元の如し。
- 寛元4年(1246年)- 1月28日 関白・内覧・藤氏長者宣下。1月29日 関白と東宮傅を止め、摂政宣下。3月8日 従一位に昇叙。12月14日 左大臣を辞す。
- 寛元5年(1247年)- 1月19日 摂政・内覧・藤氏長者を辞す。
- 弘長3年(1263年)- 8月12日 左大臣に還任。
- 文永2年(1265年)- 閏4月18日 再度の関白宣下。10月5日 左大臣を辞す。
- 文永4年(1267年)- 12月9日 関白を辞す。
- 弘安7年(1284年)- 5月19日 出家、行祚と号す。7月18日 薨去、享年62。
系譜
[編集]- 父:九条道家
- 母:西園寺掄子 - 西園寺公経女
- 室:坊門有信女
- 室:良性女
- 室:藤原定高女
- 室:園基氏女
- 五男:一条家房(1270-?)
- 室:平成俊女
- 女子:一条頊子(万秋門院)(1260-1338) - 後二条天皇尚侍