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一条実経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一条 実経
一条実経(天子摂関御影
時代 鎌倉時代
生誕 貞応2年10月2日1223年10月27日[1]
死没 弘安7年7月18日1284年8月30日
改名 行雅、行雄、行祚(法名)
別名 円明寺関白
諡号 円明寺殿、後一条入道関白
墓所 京都府京都市東山区東福寺
官位 従一位摂政関白左大臣
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇
氏族 藤原北家九条流一条家
父母 父:九条道家、母:西園寺掄子
兄弟 教実二条良実頼経一条実経円実慈源法助竴子仁子佺子 ほか
坊門有信の娘、良性の娘
藤原定高の娘、園基氏の娘
平成俊の娘
家経実家師良ほか
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一条 実経(いちじょう さねつね)は、鎌倉時代公卿従一位摂政関白左大臣五摂家の一つ一条家の祖。号に円明寺殿、後一条入道関白など。法名に行雅、行雄、行祚などがある。通称は円明寺関白(えんみょうじ かんぱく)。

九条道家の四男に生まれる。母は西園寺公経准三后綸子[2]。長兄に九条教実、次兄に二条家祖の二条良実、三兄に鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経がいる。

来歴

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寛喜4年(1229年)に元服して正五位下に叙せられる。父・道家と不仲だった兄・良実とは対照的に父に溺愛され、仁治3年(1242年)に一条室町の第を譲られる。寛元4年(1246年)1月28日に関白・藤原氏長者。翌日に後嵯峨天皇が譲位したため、後深草天皇摂政となる。また父の意向で関東申次の職務の一部を代行する。ところが同年に鎌倉で起こった兄で将軍の頼経を巡る一連の騒動(宮騒動)に連座して、翌寛元5年(1247年)1月に摂政を罷免される。しかし、父の死後に不仲であった良実と和解することで復権を図る。文永2年(1265年)に関白に再任されるが、2年後に辞任。その後、山城国山崎の円明寺で晩年を過ごし、弘安7年(1284年)7月18日薨去。享年62。墓は京都東福寺にある。

官途

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※日付は旧暦

  • 寛喜4年(1229年)- 1月21日 元服して正五位下に叙し禁色を聴される。1月30日 右近衛少将に任官。
  • 貞永元年(1229年)- 3月24日 右近衛中将に転任。4月7日 従四位下に昇叙。
  • 貞永2年(1230年)- 1月24日 播磨権守を兼任。
  • 天福元年(1233年)- 8月8日 従三位に昇叙。
  • 文暦元年(1234年)- 12月26日 正三位に昇叙。
  • 嘉禎元年(1235年)- 10月2日 権中納言に転任、右近衛中将の兼任は元の如し。
  • 嘉定2年(1236年)- 6月9日 権大納言に転任。11月22日 正二位に昇叙。
  • 嘉定4年(1238年)- 2月6日 左近衛大将を兼任。2月9日 左馬寮御監を兼帯。
  • 仁治元年(1240年)- 10月20日 右大臣に転任。10月24日 左近衛大将と左馬寮御監は元の如し。
  • 仁治2年(1241年)- 11月8日 左近衛大将を辞す(左馬寮御監もか?)
  • 寛元元年(1243年)- 8月10日 皇太子久仁親王(後の後深草天皇)東宮傅を兼任。
  • 寛元2年(1244年)- 6月13日 左大臣に転任、東宮傅の兼任は元の如し。
  • 寛元4年(1246年)- 1月28日 関白内覧藤氏長者宣下。1月29日 関白と東宮傅を止め、摂政宣下。3月8日 従一位に昇叙。12月14日 左大臣を辞す。
  • 寛元5年(1247年)- 1月19日 摂政・内覧・藤氏長者を辞す。
  • 弘長3年(1263年)- 8月12日 左大臣に還任。
  • 文永2年(1265年)- 閏4月18日 再度の関白宣下。10月5日 左大臣を辞す。
  • 文永4年(1267年)- 12月9日 関白を辞す。
  • 弘安7年(1284年)- 5月19日 出家、行祚と号す。7月18日 薨去、享年62。

系譜

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脚注

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  1. ^ 一条実経』 - コトバンク
  2. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、122頁。 

関連項目

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