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近衛兼嗣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
近衞兼嗣
時代 南北朝時代北朝
生誕 延文5年(1360年
死没 嘉慶2年3月26日1388年5月2日
別名 後六条(号)
官位 従一位摂政右大臣
主君 後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
氏族 近衞家
父母 父:近衞道嗣
母:洞院実夏の養女(洞院実世の娘)
兄弟 兼嗣、慈弁、良昭、日秀
忠嗣、玄昭、良兼
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近衞 兼嗣(このえ かねつぐ)は、南北朝時代北朝)の公卿近衛家11代当主。関白近衛道嗣の子。官位従一位摂政右大臣

経歴

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応安元/正平23年従三位に叙せられたのち、永和元/天授元年内大臣永和4/天授4年右大臣を歴任。足利義満の台頭とともに、摂政関白は義満に気脈を通じる近衛家二条家の両家が独占するようになっていたが、兼嗣は嘉慶元/元中4年、二条良基のあとを受け摂政藤氏長者の宣下を受けた。ところが翌月父近衛道嗣の死にあい、喪が明けてのち復任したものの、翌年29歳で死去。号は後六条。後任には二条良基が任ぜられ、良基4度目の関白就任であった。

官職歴

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  • 貞治5年9月26日(1366年10月30日) - 貞治5年12月7日(1367年1月7日) 左近衛権中将
  • 貞治5年12月7日(1367年1月7日) - 応安4年3月12日(1371年3月29日) 右近衛権中将
  • 貞治6年2月13日(1367年3月14日) - 応安2年12月19日(1370年1月17日) 播磨介
  • 応安2年12月19日(1370年1月17日) - 応安4年3月12日(1371年3月29日) 権中納言
  • 応安4年3月12日(1371年3月29日) - 永和元年11月18日(1375年12月11日) 権大納言
  • 永和元年11月18日(1375年12月11日) - 永和4年8月27日(1378年9月19日) 内大臣
  • 永和2年正月6日(1376年1月27日) - 永和3年5月22日(1377年6月28日) 左近衛大将
  • 永和4年8月27日(1378年9月19日) - 嘉慶2年3月26日(1388年5月2日) 右大臣
  • 至徳4年2月7日(1387年2月25日) - 嘉慶2年3月26日(1388年5月2日) 摂政後小松天皇

位階歴

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  • 貞治5年8月29日(1366年10月4日) 正五位下
  • 貞治6年正月5日(1367年2月4日) 従四位下
  • 貞治6年7月22日(1367年8月18日) 正四位下
  • 応安元年2月21日(1368年3月10日) 従三位
  • 応安2年正月5日(1369年2月12日) 正三位
  • 応安4年正月5日(1371年1月22日) 従二位
  • 応安6年正月6日(1373年1月30日) 正二位
  • 永和5年正月6日(1379年1月24日) 従一位

系譜

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参考文献

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  • 『公卿補任』
  • 『朝日日本歴史人物事典』
公職
先代
二条良基
摂政北朝
1387 - 1388
次代
二条良基
先代
二条師嗣
右大臣(北朝)
1378 - 1388
次代
久我具通
先代
勧修寺経顕
内大臣(北朝)
1375 - 1378
次代
今出川公直
軍職
先代
二条師嗣
左近衛大将(北朝)
1376 - 1377
次代
花山院兼定