近衛兼嗣
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時代 | 南北朝時代(北朝) |
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生誕 | 延文5年(1360年) |
死没 | 嘉慶2年3月26日(1388年5月2日) |
別名 | 後六条(号) |
官位 | 従一位、摂政、右大臣 |
主君 | 後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇 |
氏族 | 近衞家 |
父母 |
父:近衞道嗣 母:洞院実夏の養女(洞院実世の娘) |
兄弟 | 兼嗣、慈弁、良昭、日秀 |
子 | 忠嗣、玄昭、良兼 |
近衞 兼嗣(このえ かねつぐ)は、南北朝時代(北朝)の公卿。近衛家11代当主。関白・近衛道嗣の子。官位は従一位・摂政、右大臣。
経歴
[編集]応安元/正平23年従三位に叙せられたのち、永和元/天授元年内大臣、永和4/天授4年右大臣を歴任。足利義満の台頭とともに、摂政・関白は義満に気脈を通じる近衛家・二条家の両家が独占するようになっていたが、兼嗣は嘉慶元/元中4年、二条良基のあとを受け摂政・藤氏長者の宣下を受けた。ところが翌月父近衛道嗣の死にあい、喪が明けてのち復任したものの、翌年29歳で死去。号は後六条。後任には二条良基が任ぜられ、良基4度目の関白就任であった。
官職歴
[編集]- 貞治5年9月26日(1366年10月30日) - 貞治5年12月7日(1367年1月7日) 左近衛権中将
- 貞治5年12月7日(1367年1月7日) - 応安4年3月12日(1371年3月29日) 右近衛権中将
- 貞治6年2月13日(1367年3月14日) - 応安2年12月19日(1370年1月17日) 播磨介
- 応安2年12月19日(1370年1月17日) - 応安4年3月12日(1371年3月29日) 権中納言
- 応安4年3月12日(1371年3月29日) - 永和元年11月18日(1375年12月11日) 権大納言
- 永和元年11月18日(1375年12月11日) - 永和4年8月27日(1378年9月19日) 内大臣
- 永和2年正月6日(1376年1月27日) - 永和3年5月22日(1377年6月28日) 左近衛大将
- 永和4年8月27日(1378年9月19日) - 嘉慶2年3月26日(1388年5月2日) 右大臣
- 至徳4年2月7日(1387年2月25日) - 嘉慶2年3月26日(1388年5月2日) 摂政(後小松天皇)
位階歴
[編集]- 貞治5年8月29日(1366年10月4日) 正五位下
- 貞治6年正月5日(1367年2月4日) 従四位下
- 貞治6年7月22日(1367年8月18日) 正四位下
- 応安元年2月21日(1368年3月10日) 従三位
- 応安2年正月5日(1369年2月12日) 正三位
- 応安4年正月5日(1371年1月22日) 従二位
- 応安6年正月6日(1373年1月30日) 正二位
- 永和5年正月6日(1379年1月24日) 従一位
系譜
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任』
- 『朝日日本歴史人物事典』
公職 | ||
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先代 二条良基 |
摂政(北朝) 1387 - 1388 |
次代 二条良基 |
先代 二条師嗣 |
右大臣(北朝) 1378 - 1388 |
次代 久我具通 |
先代 勧修寺経顕 |
内大臣(北朝) 1375 - 1378 |
次代 今出川公直 |
軍職 | ||
先代 二条師嗣 |
左近衛大将(北朝) 1376 - 1377 |
次代 花山院兼定 |