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藤原田麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 田麻呂
時代 奈良時代
生誕 養老6年(722年
死没 延暦2年3月19日783年4月25日
別名 太満侶、号:蜷淵大臣
官位 従二位右大臣正二位
主君 淳仁天皇称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原宇合、母:小治田牛養の娘
兄弟 広嗣良継清成綱手田麻呂百川蔵下麻呂藤原魚名室、藤原巨勢麻呂室、掃子
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藤原 田麻呂(ふじわら の たまろ)は、奈良時代公卿。名は太満侶とも記される[1]藤原式家の祖である参議藤原宇合の五男[2]官位従二位右大臣[2][3]正二位。号は蜷淵大臣

経歴

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天平12年(740年)長兄が起こした藤原広嗣の乱に連座して隠岐国配流。天平14年(742年)罪を赦されて帰京するが、政治とは関わらず、蜷淵[4]の山中に隠棲する。仏教への信仰心が厚く、修行に努めた[2]

天平宝字5年(761年)正月に従五位下礼部少輔に叙任される。また、同月には保良京に派遣されて諸司の史生以上の官人に宅地を班給するなど、造宮使として保良宮造営を担当する[5]。同年10月には淳仁天皇が保良宮へ遷幸することになり造宮使が叙位を受け、田麻呂は従五位上に昇進する。同年11月に新羅征討のために節度使が再設置されると、南海道節度副使に任ぜられる[6]左虎賁衛督を経て、天平宝字6年(762年)3月に石上宅嗣に替わって遣唐副使に任ぜられているが、安芸国から難波江口[7]に曳航した遣唐使船が座礁・破損したため、4月に遣唐使節の規模を縮小し、田麻呂は副使を解かれた[8]。その後、天平宝字7年(763年美濃守次いで陸奥出羽按察使と地方官を務める。天平宝字8年(764年)正月に正五位下に叙せられる。

同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱後に右中弁外衛中将と文武の要職に抜擢されると、天平神護元年(765年)正五位上・外衛大将、天平神護2年(766年従四位上参議と、称徳朝において急速に昇進を果たして、叙爵後僅か5年程で公卿に列した。神護景雲2年(768年大宰大弐に任ぜられているが、これは称徳天皇及び道鏡が藤原式家官人を排斥して、道鏡の一族である弓削氏河内国を出自とする百済王氏葛井氏に権力基盤を移す意向に基づいた人事と考えられる[9]

宝亀元年(770年光仁天皇の即位に伴い正四位下に叙せられる。光仁天皇を擁立した藤原良継らによる式家主導体制が確立する中、宝亀2年(771年)には田麻呂は従三位に昇叙され兵部卿を兼ねる。しかし、宝亀5年(774年)に兵部卿を去ると、しばらく重要な官職の兼任はなくなり、弟の参議・藤原百川が没してまもない宝亀10年(779年)10月になってようやく中務卿を兼帯する。この事から、田麻呂を権力の中枢から遠ざけようとした百川の意図があった可能性が指摘されている[10]

その後は、光仁朝末の宝亀11年(780年)に正三位中納言桓武天皇が即位した翌天応元年(781年)には、右大臣大中臣清麻呂大納言・石上宅嗣の死去に伴い、大納言近衛大将へと、順調に昇進する。光仁朝末から桓武朝にかけての急速な昇進については、両天皇からの信頼の厚さもさることながら、太政官の勢力を抑制して天皇権力の確立を企図していた両天皇から、温厚・恭順な性格ゆえに田麻呂を重用しても天皇権力の妨げとはならないと思われていたことが窺われる[11]

天応2年(782年左大臣藤原魚名の失脚に伴い、従二位右大臣として太政官の首班に立つが、翌延暦2年(783年)3月19日薨去。享年62。最終官位は右大臣従二位兼近衛大将皇太子傳

人物

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腰が低く謙虚で、人と争うような事がなかったという[2]。多感な少年期から青年期にかけて兄弟の藤原広嗣綱手の誅殺や自身も隠岐へ配流された経験が、この性格の形成に影響したとも考えられる[12]

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『大日本古記録』第4巻
  2. ^ a b c d 続日本紀』延暦2年3月19日条
  3. ^ 公卿補任』では左大臣とする。
  4. ^ 現在の奈良県高市郡明日香村稲淵。
  5. ^ 『続日本紀』天平宝字5年正月21日条
  6. ^ 『続日本紀』天平宝字5年11月17日条。『公卿補任』では西海道節度使とする。
  7. ^ 淀川河口。
  8. ^ その後、渡海は中止されている。
  9. ^ 赤羽洋輔「奈良朝後期政治史に於ける藤原式家について (中)」『政治経済史学』40、1966年
  10. ^ 木本[2003: 125]
  11. ^ 木本[2013: 277]
  12. ^ 木本[2013: 275]
  13. ^ 『公卿補任』

出典

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関連項目

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福岡県春日市にある神社。大宰大弐であった神護景雲二年(768年)にその社殿を創建。