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近衛基嗣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
近衛基嗣
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代北朝
生誕 嘉元3年(1305年
死没 文和3年4月8日1354年5月1日
官位 従一位関白左大臣
主君 花園天皇後醍醐天皇光厳天皇→(後醍醐天皇)→光明天皇崇光天皇→(後村上天皇)→後光厳天皇
量仁親王(東宮職)
氏族 近衛家
父母 父:近衛経平、母:兵部卿(藤原公頼の娘)
兄弟 基嗣多羅尾師俊、慈伝、静深
後醍醐天皇の皇女、藤井嗣実の娘
道嗣
特記
事項
後村上天皇出仕は正平一統
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近衛 基嗣(このえ もとつぐ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿左大臣近衛経平の子。官位従一位関白、左大臣。

経歴

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当時近衛家の系譜は父・経平の代で分裂しており、基嗣はその嫡流の座を従兄の経忠(経平の兄・家平の子)と争った。出世争いは年長の経忠が先んじ、元徳2年(1330年)、後醍醐朝で関白任官する(短期間で辞官)。基嗣はその後光厳朝で左大臣に至るが、正慶2年/元弘3年(1333年)、鎌倉幕府の滅亡、後醍醐天皇の重祚と前後して解任される。

建武政権で登用された経忠は政権崩壊後、光明朝で関白に任ぜられる(建武政権においては、関白は廃止されていた)が、吉野に脱出して南朝を打ち立てた後醍醐天皇の下に馳せ参ずる。京の朝廷は経忠を解任し、後任の関白に基嗣を任じた。基嗣は室町幕府の誕生に関白として立ち会い、辞官後も内覧として朝政に加わった。経忠の一家は南朝の衰微と共に没落し、以降近衛家は基嗣の子孫を嫡流として続いてゆく。

官職歴

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  • 正和4年8月20日(1315年9月19日) - 正和5年正月13日(1316年2月7日) 右近衛少将
  • 正和5年正月13日(1316年2月7日) - 文保元年3月27日(1317年5月8日) 近江介
  • 正和5年正月13日(1316年2月7日) - 元応2年3月24日(1320年5月3日) 右近衛中将
  • 文保元年3月27日(1317年5月8日) - ? 近江権守
  • 元応元年6月14日(1319年7月2日) - 元応2年3月24日(1320年5月3日) 権中納言
  • 元応2年3月24日(1320年5月3日) - 嘉暦元年11月1日(1326年11月26日) 権大納言
  • 嘉暦元年7月24日(1326年8月22日) - 嘉暦元年11月1日(1326年11月26日) 春宮大夫量仁親王
  • 嘉暦元年11月1日(1326年11月26日) - 元徳2年2月26日(1330年3月16日) 内大臣
  • 嘉暦2年7月16日(1327年8月3日) - 元徳元年9月26日(1329年10月19日) 左近衛大将
  • 元徳2年2月26日(1330年3月16日) - 元徳3年正月30日(1331年3月9日) 右大臣
  • 元徳2年3月22日(1330年4月10日) - 元弘元年9月20日(1331年10月22日) 東宮傅量仁親王
  • 元徳3年2月1日(1331年3月10日) - 正慶2年5月17日(1333年6月29日) 左大臣
  • 建武4年4月16日(1337年5月16日) - 建武5年5月19日(1338年6月7日) 関白光明天皇

位階歴

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  • 正和4年8月17日(1315年9月16日) 従五位上
  • 正和4年8月20日(1315年9月19日) 正五位下
  • 正和4年10月28日(1315年11月25日) 従四位下
  • 正和4年12月15日(1316年1月10日) 従四位上
  • 正和5年10月4日(1316年10月20日) 従三位
  • 文保2年正月5日(1318年2月6日) 正三位
  • 元応3年正月5日(1321年2月2日) 従二位
  • 嘉暦2年3月24日(1327年4月16日) 正二位
  • 建武5年正月5日(1338年1月26日) 従一位

系譜

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出典

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公職
先代
近衛経忠
関白北朝
1337 - 1338
次代
一条経通
先代
鷹司冬教
左大臣
1331 - 1333
次代
二条道平
先代
近衛経忠
東宮傅量仁親王
1330 - 1331
次代
東宮職廃止(量仁親王即位のため)
先代
近衛経忠
右大臣
1330 - 1331
次代
久我長通
先代
西園寺実衡
内大臣
1326 - 1330
次代
久我長通
先代
洞院公賢
春宮大夫量仁親王
1326
次代
西園寺公宗
軍職
先代
大宮季衡
左近衛大将
1327 - 1329
次代
久我長通