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九条政忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
九条政忠
時代 室町時代 - 戦国時代初期
生誕 永享12年(1440年
死没 長享2年8月23日1488年9月28日
改名 成家(初名)→政忠
別名 号:普門寺
官位 正二位関白内大臣
主君 後花園天皇後土御門天皇
氏族 九条家
父母 父:九条加々丸、母:堀川局
養父:九条満家
兄弟 政忠覚尋
政超忠厳桓昭忠承
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九条 政忠(くじょう まさただ)は、室町時代から戦国時代初期にかけての公卿関白九条満家の養子。官位正二位内大臣、関白。九条家13代当主。普門寺と号す。

経歴

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祖父は九条満家で、父は満家の嫡男であるが病弱で、20代となっても元服も行っていなかった加々丸。そのため、満家の後を誰が継ぐのかで問題が発生した。

文安5年(1448年)10月に具合の悪かった満家は大和国にいる弟の経覚を呼び、次期九条家家督として、満家の嫡男であるが病弱であった加々丸(28歳)の10歳になる若君(政忠)か、満家の実子で4歳になる茶々丸(九条政基[注釈 1][2][3]のどちらに家を継がせばよいかを問うたところ、思案した経覚はひとまず10歳の若君(政忠)を家督とし、将来には茶々丸に家督を譲らせるということにすれば良いのではというと、満家はたいそう喜んでその通りにし、10歳の若君(政忠)を自らの養子として家を継がせた。また、加々丸は出家した[4]

室町幕府8代将軍・足利義政(義成)から偏諱を受け成家(しげいえ)と名乗る。のちに義成が「義政」に改名すると、重ねて「政」の字を与えられて政忠と名乗った。

宝徳3年(1451年)、12歳で従三位に叙せられる。康正2年(1456年正二位に昇叙される。25歳で内大臣となるが、叔父・政基との間に家督争いが生じ、隠居を余儀なくされる(公卿補任[注釈 2]。その後宮廷に復帰して、長享元年(1487年)関白に就任、長享2年(1488年)に藤氏長者となるが、同年8月23日に49歳で薨去した。

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ かつて政忠は九条満家の子であり、政基の異母兄と推測されていたこともあった[1]。しかし実際には政忠は満家の孫である(満家の子であり、政基にとっては兄である加々丸の子)。そのため、血縁の上では政基が叔父、政忠が甥という関係になる(政基のほうが年少)。しかし政忠は相続にあたって祖父・満家の養子となっているため、政忠と政基を兄弟と見ても間違いとは言えない。
  2. ^ 『公卿補任』寛正6年条の九条政忠の項目本文中3月の左大将停止については「依長病未拝賀」という理由が掲げられている一方で、9月の隠居の記事には「依家門事也」と注記されており、政忠の隠居が(実は病気ではなく)家督が原因であったことが判明する[5]。また、政基の母方の伯父でもあった家司の唐橋在治が政基の擁立のために奔走しているのを知った政忠が唐橋を暗殺しようとしていることが露見したため隠居に追い込まれたと伝えられている[6]。一方で同じ『公卿補任』でも、文明19年(1487年)に関白となった政忠について「雖非摂家家督之人於一代者可被補当職之由後三縁院満教公被仰置東山殿御執奏云々」(政忠一代に限って関白にしてやってほしいという亡父九条満家の意向に沿って足利義政がとりはからったことだ)と注記した写本が存在する。政忠の隠居によって九条家の家督争いが終息したわけではない。

出典

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  1. ^ 湯川敏治「戦国期における公家裁判の一例 唐橋在数殺害事件顚末を中心に」(『史泉』第69号)
  2. ^ 小森正明「室町期における九条家領荘園について―尾張国二宮荘を中心として―」(『書陵部紀要』第60号)
  3. ^ 廣田浩治「中世後期の九条家家僕と九条家領荘園 九条政基・尚経期を中心に」(『国立歴史民俗博物館研究報告 第104集』)内の系図
  4. ^ 酒井紀美『経覚』p150-p154
  5. ^ 湯川 2005, p. 323.
  6. ^ 樋口健太郎『摂関家の中世 藤原道長から豊臣秀吉まで』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2021年、216ー217頁。 

参考文献

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