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藤原師通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 師通
藤原師通(菊池容斎『前賢故実』より)
時代 平安時代後期
生誕 康平5年9月11日1062年10月16日
死没 承徳3年6月28日(1099年7月18日)
別名 後二条殿、二条関白
官位 従一位関白内大臣
主君 白河天皇堀河天皇
氏族 藤原北家御堂流
父母 父:藤原師実、母:源麗子源師房の娘)
兄弟 覚実仁源師通家忠覚信経実静意澄真能実忠教仁澄尋範行玄増智永実玄覚忠長藤原基隆
養兄弟:賢子篤子内親王
藤原全子藤原俊家の娘)
藤原信子(藤原信長の養女)、藤原良綱の娘
平貞経の娘、源頼綱の娘
妾:家女房丹後、源師忠家女房
忠実家政家隆斎院女別当、女子、令子内親王宣旨、覚英栖霞院姫君
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藤原 師通(ふじわら の もろみち)は、平安時代後期の公卿藤原北家関白藤原師実の嫡男。官位従一位関白内大臣

経歴

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承保3年(1076年)、権大納言藤原俊家一女の全子を正室に迎える。承暦2年(1078年)に長男忠実が生まれるが、その後全子とは疎遠となり、藤原教通の子信長の養女信子と再婚した。これは摂家の主導権を巡って長年対立していた頼通流と教通流の確執に終止符を打つ意味合いを持つものだったことは想像に難くないが、しかし実質的に離婚された方の全子は師通と信子を恨み、亡父俊家の肖像を描かせて夜な夜な礼拝し、師通夫妻を呪ったという[1]寛治8年(1094年)師実の後を継いで関白に就任すると、白河上皇から自立して親政を行おうとしていた堀河天皇と共に積極的な政務を展開する。

院政が制度として確立していない当時にあっては、成人した天皇と関白が緊密に提携していれば上皇が権力を振るう余地はまだあまりなかった。師通は「おりゐのみかどの門に車たつ樣やはある(譲位した天皇の御所の門に、牛車が立ち並ぶことなどあろうか)」と公言したという[2]。師通は大江匡房に学問を学び、匡房に代表される伝統的な実務官僚層を掌握する。その一方では新興の院近臣勢力に対しては警戒感を示し、藤原顕季の邸宅を身分不相応だとして破壊したことが伝わる[3]。さらに白河が受領に任じた近臣を受領功過定を経ずに重任させようとしたのを制止までしている。そうした政治姿勢は「嘉保永長の間、天下粛然」[4]と賛美された。

嘉保2年(1095年)に延暦寺日吉社美濃守源義綱流罪を求めて強訴した際には、断固これを拒否した上で中務丞源頼治を派遣して衆徒を撃退させている。ところがその際に威嚇として放った矢が僧兵神人に当たり負傷者が出たため、延暦寺は朝廷を呪詛した[注釈 2]。そのためか承徳3年(1099年)師通は悪瘡を患い数え38(満36歳)で急死、師通の政権は僅か5年で終焉した。延暦寺はこれを神罰が下ったものと喧伝した[6]

後継者の忠実はまだ数え22と若く、官職もいまだ権大納言で関白となる要件にも欠けていた。引退していた師実にも忠実を支えるだけの余力はすでになかった。師通が有能だっただけにそれを失った摂関家は白河に対する従属を余儀なくされ、その勢力を大きく後退させていく。

人物

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性格は剛直で気が強く、真面目で物事の道理を重視する性格であったと伝えられている[7]。また体躯も立派であり、歴代天皇御物である絃上という琵琶を弾いた際、琵琶がまるで塵のように小さく見えたとの話が伝わっている[2]

その一方で、若い頃から健康問題を抱えていたらしく、師通の日記である『後二条師通記』にも寛治3年(1089年)頃より体調不良の記述がみられる。その一方で、亡くなる11日前まで日記が書かれていることから、本人にとっても突然の死であったことが窺える[8]

日記に『後二条師通記』がある。

官歴

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※日付=旧暦

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ この呪いのために師通は早死にし、扶養してくれる家族を失った信子は「乞食」と呼ばれるほど経済的に困窮したと記されている。
  2. ^ 「山僧五壇法を行い國家を咒咀し奉る」[5]

出典

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  1. ^ 台記』久安元年12月24日条[注釈 1]
  2. ^ a b 今鏡
  3. ^ 『吉部秘訓抄』
  4. ^ 本朝世紀
  5. ^ 百錬抄』嘉保2年11月条
  6. ^ 平家物語』「願立」、『愚管抄』巻4
  7. ^ 『平家物語』
  8. ^ 中丸、2019年、P88-96.
  9. ^ 『中右記』嘉承2年八月十三日条

参考文献

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  • 春名好重「藤原師通」、『墨美』106号。
  • 木本好信「後二条師通の儀式観について」、『日本海地域史研究』所収。
  • 木本好信「後二条師通の周辺」、『日本歴史』461号。
  • 木本好信「後二条師通記と藤原師通」、『平安朝日記と逸文の研究』所収、桜楓社。
  • 木本好信「藤原師通と大江匡房」、『平安朝官人と記録の研究』所収、おうふう。
  • 中丸貴史「後二条師通の学習記録」、『東アジア比較文化研究』7号。(『「後二条師通記」論-平安朝〈古記録〉というテクスト-』第Ⅱ部第一章所収)
  • 中丸貴史「後二条師通記における漢籍引用」、『学習院大学人文科学論集』17号。(『「後二条師通記」論-平安朝〈古記録〉というテクスト-』第Ⅱ部附章所収)
  • 中丸貴史「漢文日記の生成ー後二条師通記二つの本文ー」、『日本文学』56巻9号。(『「後二条師通記」論-平安朝〈古記録〉というテクスト-』第Ⅰ部第二章所収)
  • 中丸貴史「後二条師通記寛治五年曲水宴関連記事における唱和記録」、『海を渡る天台文化』所収、勉誠出版。(『「後二条師通記」論-平安朝〈古記録〉というテクスト-』第Ⅱ部第四章所収)
  • 中丸貴史 『「後二条師通記」論-平安朝〈古記録〉というテクスト-』(和泉書院、2019年) ISBN 978-4-7576-0937-2