藤原能実
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 延久2年(1070年) |
死没 | 長承元年9月9日[1](1132年10月19日) |
官位 | 正二位、大納言 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流 |
父母 | 父:藤原師実、母:藤原基貞の娘 |
兄弟 |
覚実、仁源、師通、家忠、覚信、経実、静意、澄真、能実、忠教、仁澄、尋範、行玄、増智、永実、玄覚、忠長、 藤原基隆室など 養兄弟:賢子(源顕房娘)、 篤子内親王(後三条天皇皇女) |
妻 | 出雲守基仲の娘、藤原祐家の娘、光清の娘 |
子 | 基能、忠頼、真勝、中納言忠季室、源師頼室、藤原宗能室、源師隆室、藤原忠宗室 |
藤原 能実(ふじわら の よしざね)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原師実の四男。官位は正二位・大納言。
経歴
[編集]永保2年(1082年)元服して従五位上に叙される。侍従・左近衛権少将に叙任され、翌年正五位下・右近衛権中将に叙任される。4月に左権中将に転じて、応徳2年(1085年)従四位下に叙された。
応徳3年12月(1087年1月)従四位上・蔵人頭に叙任される。寛治元年(1087年)には正四位下・備中権守叙任され、11月に従三位に昇叙。寛治6年(1092年)周防権守に任ぜられる。翌寛治7年(1093年)正三位・中宮権大夫。嘉保3年(1096年)には参議に任ぜられ、永長2年(1097年)さらに左兵衛督、丹波権守も兼任。康和元年12月(1100年1月)権中納言に任ぜられる。同年に従二位に叙される。
康和4年(1102年)正二位に昇叙。天仁元年(1108年)右兵衛督に転じる。天永元年(1110年)恂子内親王の長奉送使を務める。永久3年(1115年)中納言、保安3年12月(1123年1月)権大納言次いで大納言に昇る。
皇后宮大夫を務めた後、長承元年(1132年)8月に出家。9月に薨去した。享年63。
官歴
[編集]- 永保2年(1082年)正月:元服、従五位上 21日:侍従 2月28日:左近衛権少将[2]
- 永保3年(1083年)正月:正五位下(労) 2月:右近衛権中将または右近衛中将、美作介 4月:左近衛権中将または左近衛中将
- 応徳2年(1085年)正月:従四位下(労)
- 応徳3年12月8日(1087年1月):蔵人頭、従四位上(院御給。御即位)
- 寛治元年(1087年)5月:正四位下(太上皇御幸平等院日賞) 11月10日:備中権守 11月22日:従三位 12月13日(1088年1月):侍従
- 寛治6年(1092年)正月:周防権守
- 寛治7年(1093年)正月3日:正三位 2月21日:中宮権大夫(立后日、侍従如元)
- 嘉保3年(1096年)正月:参議
- 永長2年(1097年)正月:左兵衛督、丹波権守
- 康和元年12月(1100年1月):権中納言
- 康和2年(1100年)正月7日:従二位(春日行幸行事賞)
- 康和4年(1102年)3月20日:正二位(御賀日賞)
- 長治元年(1104年)11月:使別當
- 天仁元年(1108年)11月14日:右衛門督
- 天永元年(1110年):恂子内親王長奉送使
- 天永2年(1111年)正月23日:左衛門督
- 永久2年(1114年)10月1日:止大夫
- 永久3年(1115年)4月28日:中納言
- 保安3年12月17日(1123年1月):権大納言、正 12月21日:皇后宮大夫
- 長承元年(1132年)8月18日:出家