藤原家忠
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 康平5年(1062年) |
死没 | 保延2年5月14日(1136年6月15日) |
別名 | 花山院左大臣 |
官位 | 従一位、左大臣 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流花山院家 |
父母 | 父:藤原師実、母:源頼国の娘 |
兄弟 |
覚実、仁源、師通、家忠、覚信、経実、静意、澄真、能実、忠教、仁澄、尋範、行玄、増智、永実、玄覚、忠長、 藤原基隆室など 養兄弟:賢子、篤子内親王 |
妻 | 藤原定綱の娘、橘致綱の娘ら |
子 |
忠宗、忠能、忠兼、玄城房尋覚 養子:家光 |
藤原 家忠(ふじわら の いえただ)は、平安時代後期の公卿。藤原北家、関白藤原師実の次男。官位は従一位・左大臣。花山院左大臣と呼ばれ、花山院家の祖となった。
経歴
[編集]異母兄・師通の急死に続く甥・忠実失脚後、摂関の候補に上り自身もその地位を望んだが、院近臣藤原顕隆による白河法皇への諫言によって実現する事はなかった。
堀河天皇の信頼が厚く、康保5年(1103年)の右近衛大将就任が天皇の強い意向であった事が、『中右記』・『今鏡』に記されている。
近年では『大鏡』の増補部分の執筆者を令子内親王の皇后宮大夫をつとめた家忠であるとする説もある(大鏡巻末に見える「皇后宮の大夫殿書きつがはれたる夢なり」から、大鏡成立の下限とされる12世紀初頭に皇后宮大夫の職にあった家忠か、その後任の源雅定、もしくはもっと時代を繰り上げて11世紀の中宮大夫藤原能信か源顕房を作者に推定する向きもある)。すなわち摂関家寄りの村上源氏か摂関家分家の人物が書いたと考えるのである。
官歴
[編集]- 延久4年(1072年) 従五位下
- 承保元年(1074年) 侍従
- 承保2年(1075年) 右近衛少将
- 承保3年(1076年) 従五位上、近江介。同年12月、正五位下。
- 承保4年(1077年) 従四位下、左近衛中将
- 承暦2年(1078年) 従四位上
- 承暦4年(1080年) 従三位
- 承暦5年(1081年) 正三位、兼讃岐権守
- 永保2年(1082年) 参議に昇進。
- 永保3年(1083年) 権中納言
- 永保4年(1084年) 中宮権大夫、従二位
- 応徳3年(1086年) 兼左衛門督
- 寛治2年(1088年) 正二位
- 寛治5年(1091年) 権大納言
- 康和5年(1103年) 兼右大将
- 嘉承2年(1107年) 兼皇后宮大夫(令子内親王、郁芳門院より続く非妻の皇后、鳥羽天皇の父方の叔母にして准母)
- 永久3年(1115年) 大納言
- 保安2年(1121年) 兼左大将
- 保安3年(1122年) 右大臣
- 天承元年(1131年) 従一位左大臣
系譜
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