花山院忠経
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『天子摂関御影』 | |
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
生誕 | 承安3年(1173年)1月 |
死没 | 寛喜元年8月5日(1229年8月25日) |
別名 | 花山院右大臣 |
官位 | 正二位、右近衛大将、右大臣 |
主君 | 後白河上皇→高倉天皇→安徳天皇→後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 花山院家 |
父母 | 父:藤原兼雅、母:平清盛の次女 |
兄弟 | 九条良通室、忠経、五辻家経、兼信、兼成、円雅 |
妻 | 一条保子(一条能保の娘)、葉室宗行の娘 |
子 |
忠頼、忠輔、定雅、経雅、師継、経子 養子:宣経 |
花山院 忠経(かさんのいん ただつね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。花山院家5代当主。
左大臣・藤原兼雅の長男。官位は正二位・右大臣、右近衛大将。花山院右大臣と号する。
経歴
[編集]※ 以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 承安5年(1175年)4月7日、叙爵。
- 治承元年(1177年)12月29日、侍従に任ぜられる。この日の夜に元服し、昇殿を許される。
- 治承3年(1179年)4月11日、従五位上に昇叙。同日、禁色を許される。
- 治承5年(1181年)3月26日、土佐権介を兼ねる。
- 寿永2年(1183年)1月7日、正五位下に昇叙。
- 元暦2年(1185年)1月6日、従四位下に昇叙。侍従は元の如し。
- 文治3年(1187年)1月23日、右中将に任ぜられる。[1]
- 文治4年(1188年)1月6日、従四位上に昇叙。同年10月14日、左中将に転任。[2]
- 文治5年(1189年)1月5日、正四位下に昇叙。同月18日、伊予介を兼ねる。また同年7月10日、従三位に叙される。左中将は元の如し。[3]
- 文治6年(1190年)1月24日、越中権守を兼ねる。
- 建久2年(1191年)1月5日、正三位に昇叙。
- 建久4年(1193年)12月9日、参議に任ぜられる。中将は元の如し。
- 建久5年(1194年)1月30日、讃岐権守を兼ねる。
- 建久6年(1195年)4月7日、従二位に昇叙。
- 建久8年(1197年)1月30日、権中納言に任ぜられる。同年2月17日には勅授帯剣を許される。
- 建久9年(1198年)4月23日、大嘗会の検校を務め、同年12月9日には皇后宮大夫を兼ねる。
- 正治元年(1199年)6月22日、中納言に転正。
- 正治2年(1200年)3月6日、権大納言に任ぜられる。同年4月15日、春宮大夫を兼ねる。同年7月18日に父兼雅が薨去したため喪に服し、10月11日に復任した。
- 正治3年(1201年)1月29日、正二位に昇叙。
- 建仁2年(1202年)11月3日、右近衛大将を兼ねる。[4]
- 元久2年(1205年)11月24日、大納言に転正。
- 元久3年(1206年)3月28日、内大臣に任ぜられる。右大将は元の如し。
- 建永2年(1207年)2月10日、右大臣に転任。同年4月10日、右大将を辞した。
- 承元2年(1208年)5月28日、上表して右大臣を辞した。
- 建保元年(1213年)12月22日、出家。
- 寛喜元年(1229年)8月5日、薨去。
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 文治5年(1189年)に忠経が非参議従三位となった時以降の記事。
- 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「花山院忠経」および「花山院兼雅」の項。
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