花山院家厚
表示
時代 | 江戸時代後期 |
---|---|
生誕 | 寛政元年3月28日(1789年4月23日) |
死没 | 慶応2年8月20日(1866年9月28日) |
別名 | 号:寛恭院 |
官位 | 従一位、右大臣 |
主君 | 光格天皇→仁孝天皇→孝明天皇 |
氏族 | 花山院家 |
父母 |
父:花山院愛徳 母:蜂須賀静子(蜂須賀重隆の娘) |
兄弟 | 家厚、今城定章 |
子 | 家威、家正、家理、梅など |
花山院 家厚(かさんのいん いえあつ)は、江戸時代後期の公卿。右大臣・花山院愛徳の子。官位は従一位・右大臣。花山院家30代当主。
経歴
[編集]寛政4年(1792年)に叙爵。以降、侍従・右近衛権少将を経て、寛政10年(1798年)に従三位右近衛権中将となり、公卿に列する。その後も踏歌節会外弁や権中納言を経て、文化6年(1809年)恵仁親王(のちの仁孝天皇)の立太子に伴い、その春宮権大夫となる。文化11年(1814年)権大納言に任じられる。文化14年(1817年)、皇太子恵仁親王の即位に伴い、春宮権大夫を辞職の上、譲位して院政を開始した光格上皇の院執権に転じた。
天保5年(1834年)右近衛大将・右馬寮御監に任じられる。弘化4年(1847年)には内大臣に任じられる。しかし同年任職を辞した。嘉永元年(1848年)には従一位を授与され、安政6年(1859年)には右大臣に任じられ、同年踏歌節会内弁を務めた。文久2年(1862年)に右大臣を辞した。
絵画にも造詣が深く、狩野派の絵画をよく描いたという。