花山院家教
時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
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生誕 | 文応2年1月20日(1261年2月20日) |
死没 | 永仁5年5月26日(1297年6月17日) |
官位 | 正二位、左近衛大将、権大納言 |
主君 | 亀山天皇→後宇多天皇→伏見天皇 |
氏族 | 花山院家 |
父母 | 父:花山院通雅、母:中院通方の娘 |
兄弟 | 家長、家教、定教、雲雅、円雅 |
妻 | 大宮院権中納言(法性寺雅平の娘) |
子 | 家定 |
花山院 家教(かさんのいん いえのり、旧字体:花󠄁山院 家敎)は、鎌倉時代中期の公卿。太政大臣・花山院通雅の次男。官位は正二位・権大納言、左近衛大将。
経歴
[編集]弘長2年(1262年)正月に従五位下に叙爵。同年3月に父の譲りで従五位上に昇叙。弘長3年(1263年)に正五位下に叙せられ、文永3年(1266年)侍従に任ぜられる。
文永5年(1268年)従四位下・侍従に叙任。文永7年(1270年)には従四位上・阿波権介となり、文永9年(1272年)に正四位下に叙せられる。文永10年12月(1274年2月)に右近衛権中将に任ぜられ、ほどなくして左近衛権中将に転じる。建治2年(1276年)従三位・備中権守に叙任されて公卿に列し、同年さらに参議に任ぜられるが、父・通雅の薨御により喪に服した。
建治3年(1277年)正三位、建治4年(1278年)従二位に昇叙。弘安2年12月(1280年1月)権中納言に任ぜられる。弘安6年(1283年)権中納言を辞退するが同年中に還任し、弘安7年(1284年)正二位に叙せられた。また、大宮院(西園寺姞子)の院司を務め、弘安8年(1285年)の北林准后(四条貞子)の九十賀に奉行してその次第を作進している[1]。正応元年(1288年)には中納言に転じ、同年さらに権大納言に昇進した。正応2年(1289年)には春宮大夫を兼ね、正応5年(1292年)には左近衛大将も兼帯した。
永仁2年(1294年)正月16日に踏歌節会の内弁を務め、2月には久子内親王の院号を決定する議定において、家教は花山院師信らと共に永陽門院を推して採用されている[2]。同月末に祖父・定雅の薨御により喪に服し、4月に復任した。永仁5年(1297年)5月15日、病により職を辞任して21日に出家。26日に薨去。享年37。
20代より儀式の次第を作進し、正応2年(1289年)や正応4年(1291年)の正月の叙位の議では執筆を務めるなど、有職故実に詳しかった。
官歴
[編集]※以下、『諸家傳』の記載に従う。
- 弘長2年(1262年)
- 正月5日:従五位下に叙す(大宮院当年御給)。
- 3月29日:従五位上に叙す(朝覲行幸父卿院司賞譲)。
- 弘長3年(1263年)2月19日:正五位下に叙す。
- 文永3年(1266年)3月-日:侍従に任ず。
- 文永5年(1268年)正月5日:従四位下に叙す。正月29日:侍従に任ず。
- 文永7年(1270年)
- 正月21日:阿波権介を兼ぬ。
- 12月4日(1271年1月16日):従四位上に叙す。
- 文永9年(1272年)正月5日:正四位下に叙す。
- 文永10年12月30日(1274年2月8日):右近衛権中将に任じ、禁色を聴す。
- 文永11年(1274年)正月25日:左近衛権中将に転ず。
- 建治2年(1276年)
- 正月5日:従三位に叙す(新院当年御給)。中將如元。
- 正月23日:備中権守を兼ぬ。
- 4月14日:参議に任ず。中將権守如元。
- 5月4日:服解(父)。7月10日:復任。
- 建治3年(1277年)正月29日:正三位に叙す。
- 建治4年(1278年)11月18日:従二位に叙す。
- 弘安2年12月12日(1280年1月15日):権中納言に任ず。
- 弘安6年(1283年)2月26日:権中納言を辞任。12月20日(1284年1月9日):還任。
- 弘安7年(1284年)正月6日:正二位に叙す。
- 正応元年(1288年)7月11日:中納言に転ず。10月27日:権大納言に任ず。
- 正応2年(1289年)正月7日:白馬節会の内弁に奉仕す。4月25日:春宮大夫を兼ぬ。
- 正応4年(1292年)正月7日:白馬節会の内弁に奉仕す。
- 正応5年(1292年)5月15日:左近衛大将を兼ぬ。閏6月16日:右近衛大将に遷る。
- 正応6年(1293年)正月7日:白馬節会の内弁に奉仕す。
- 永仁2年(1294年)
- 正月16日:踏歌節会の内弁に奉仕す。
- 2月30日:服解(祖父)。4月28日:復任。
- 永仁5年(1297年)
- 5月15日:病により三職(権大納言春宮大夫左大将)を辞す。
- 5月21日:出家。
- 5月26日:薨去。享年37。
系譜
[編集]脚注
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