九条道教
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時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代(北朝) |
---|---|
生誕 | 正和4年(1315年) |
死没 | 貞和5年7月6日(1349年8月20日) |
改名 | 道教→圓恵(法名) |
官位 | 従一位、関白、左大臣 |
主君 |
後醍醐天皇→光厳天皇→後醍醐天皇→光明天皇 益仁親王(東宮職) |
氏族 | 九条家 |
父母 |
父:九条師教、母:守良親王の娘 養父:九条房実 |
兄弟 | 道教、覚尊、孝覚 |
妻 | 正室:大宮季衡の娘 |
子 | 孝尊、養子:経教 |
九条 道教(くじょう みちのり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。摂政・九条師教の子。九条房実の養子。
正中2年非参議。嘉暦2年兄房実の死により九条家を継承し、康永元/興国3年関白• 氏長者となる。道教の生きた時代は南北朝の内乱期に当たり、建武3/延元元年入京間もない足利尊氏より、家領の所有を認められていることが示すように、北朝方の公家としての立場をとっていた。貞和2/正平元年出家、法名円恵。没後、三縁院殿と称される。
官職歴
[編集]- 元亨3年12月29日(1324年1月26日) - ? 侍従
- 元亨4年正月13日(1324年2月8日) - 嘉暦2年11月10日(1327年12月23日) 右近衛中将
- 正中3年2月19日(1326年3月23日) - 嘉暦2年11月10日(1327年12月23日) 伊予権守
- 嘉暦2年11月10日(1327年12月23日) - 嘉暦3年3月16日(1328年4月26日) 権中納言
- 嘉暦3年3月16日(1328年4月26日) - 建武4年7月12日(1337年8月8日) 権大納言
- 元徳2年3月22日(1330年4月10日) - 延元元年3月2日(1336年4月13日) 右近衛大将
- 延元元年3月2日(1336年4月13日) - 暦応元年8月30日(1338年10月13日) 左近衛大将
- 建武4年7月12日(1337年8月8日) - 暦応2年12月27日(1340年1月26日) 右大臣
- 建武5年8月13日(1338年9月26日) - 暦応5年3月30日(1342年5月5日) 皇太子傅(益仁親王)
- 暦応2年12月27日(1340年1月26日) - 康永元年11月1日(1342年11月29日) 左大臣
- 暦応5年正月27日(1342年3月4日) - 康永元年11月12日(1342年12月10日) 関白
位階歴
[編集]- 元亨3年12月22日(1324年1月19日) 正五位下
- 元亨4年正月5日(1324年1月31日) 従四位下
- 元亨4年4月27日(1324年5月20日) 正四位下
- 正中2年正月29日(1325年2月13日) 従三位
- 嘉暦3年正月5日(1328年2月16日) 正三位
- 元徳2年正月5日(1330年1月24日) 従二位
- 元弘元年12月9日(1332年1月7日) 正二位
- 正慶2年5月17日(1333年6月29日) 従二位
- 元弘4年正月5日(1334年2月9日) 正二位
- 康永元年11月8日(1342年12月6日) 従一位
系譜
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任』
- 『朝日日本歴史人物事典』
公職 | ||
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先代 一条経通 |
関白(北朝) 1342 |
次代 鷹司師平 |
先代 一条経通 |
左大臣(北朝) 1340 - 1342 |
次代 洞院公賢 |
先代 一条経通 |
皇太子傅(益仁親王) 1338 - 1342 |
次代 二条良基 |
先代 洞院公賢 |
右大臣(北朝) 1337 - 1340 |
次代 鷹司師平 |
軍職 | ||
先代 一条経通 |
左近衛大将(北朝) 1336 - 1338 |
次代 二条良基 |
先代 洞院公賢 |
右近衛大将(分裂前→北朝) 1330 - 1336 |
次代 鷹司師平 |