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近衛道嗣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
近衛道嗣
時代 南北朝時代北朝
生誕 元弘3年(1333年
死没 至徳4年3月17日1387年4月5日
官位 従一位関白左大臣
主君 光明天皇崇光天皇→(後村上天皇)→後光厳天皇後円融天皇後小松天皇
直仁親王(東宮職)
氏族 近衛家
父母 父:近衛基嗣、母:藤井嗣実の娘
正室:洞院実夏の養女洞院実世の娘)
兼嗣、慈弁、良昭、日秀
特記
事項
後村上天皇出仕は正平一統
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近衛 道嗣(このえ みちつぐ)は、南北朝時代公卿関白近衛基嗣家女房の子。近衛家10代当主。

経歴

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暦応元/延元3年従三位内大臣右大臣左大臣を経て康安元/正平16年関白藤氏長者となる。号は後深心院。日記に『愚管記』があり、その中で足利義詮執奏の勅撰集『新拾遺和歌集』を衆人同意の勅撰集ではないと記し、義詮を批判している。『実冬公記』(三条実冬の日記)には、道嗣が足利義満とは昵懇であったが気遣いも多く、それが病を招き死に至ったとあり、詩歌はその道に達するほどではなかったが、当代においては数寄人と評され、その死は義満を落胆させたとの記述もみえる。なお二条良基選『菟玖波集』に漢文の序を寄せており、互いの親交がうかがわれる。

天授4年9月8日、『愚管記』にハレー彗星の観測を記録している。同10月15日、北朝は尊道入道親王を宮中に召し、五壇法を修して彗星の災いを祓う祈祷を行わせた。

蹴鞠の名手としても名を馳せた。

系譜

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官職歴

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  • 建武4年10月8日(1337年11月1日) - 暦応元年10月19日(1338年12月1日) 右近衛少将
  • 暦応元年10月19日(1338年12月1日) - 康永3年7月29日(1344年9月6日) 右近衛中将
  • 暦応2年正月13日(1339年2月22日) - 暦応4年12月21日(1342年1月28日) 播磨権守
  • 暦応4年12月21日(1342年1月28日) - 康永3年7月29日(1344年9月6日) 権中納言
  • 康永3年7月29日(1344年9月6日) - 貞和3年9月16日(1347年10月20日) 権大納言
  • 貞和2年10月16日(1346年11月29日) - 貞和4年4月28日(1348年5月26日) 右近衛大将
  • 貞和3年9月16日(1347年10月20日) - 貞和5年9月13日(1349年10月25日) 内大臣
  • 貞和4年4月28日(1348年5月26日) - 貞和4年8月12日(1348年9月5日) 左近衛大将
  • 貞和4年10月27日(1348年11月18日) - 観応3年2月20日(1352年3月6日) 東宮傅直仁親王
  • 貞和5年9月13日(1349年10月25日) - 延文5年9月30日(1360年11月9日) 右大臣
  • 延文5年9月30日(1360年11月9日) - 貞治元年10月4日(1362年10月22日) 左大臣
  • 康安元年11月19日(1361年12月16日) - 貞治2年6月16日(1363年7月27日) 関白

位階歴

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  • 建武4年8月25日(1337年9月20日) 正五位下
  • 建武4年12月24日(1338年1月15日) 従四位下
  • 建武5年正月5日(1338年1月26日) 正四位下
  • 暦応元年10月19日(1338年12月1日) 従三位
  • 康永2年正月5日(1343年1月31日) 正三位
  • 貞和2年(1346年)? 従二位
  • 貞和4年4月12日(1348年5月10日) 正二位
  • 文和4年8月13日(1355年9月19日) 従一位

参考文献

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  • 公卿補任
  • 『朝日日本歴史人物事典』
  • 『愚管記』
公職
先代
九条経教
関白北朝
1361 - 1363
次代
二条良基
先代
九条経教
左大臣(北朝)
1360 - 1362
次代
鷹司冬通
先代
九条経教
右大臣(北朝)
1349 - 1360
次代
鷹司冬通
先代
東宮職設置(直仁親王立太子)
東宮傅直仁親王
1348 - 1352
次代
東宮職廃止(直仁親王廃太子のため)
先代
徳大寺公清
内大臣(北朝)
1347 - 1349
次代
西園寺公重
軍職
先代
九条経教
左近衛大将(北朝)
1348
次代
西園寺公重
先代
徳大寺公清
右近衛大将(北朝)
1346 - 1348
次代
西園寺公重