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土屋重治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土屋 重治[注釈 1]
時代 戦国時代後期
生誕 永正11年(1520年[2]
死没 永禄7年1月11日1564年3月4日[2]
別名 惣兵衛、甚助[1][2]、長吉?[5][注釈 2]
戒名 桂巌[2]
主君 松平家康
氏族 土屋氏[2]
父母 父:土屋惣兵衛[2]
重信重利重成[6]
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土屋 重治(つちや しげはる)[注釈 1]は、戦国時代三河国武士。通称は惣兵衛、あるいは甚助[1][2]

生涯

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土屋宗遠の末裔を称する平姓土屋氏の一族で、父は松平広忠に仕えたという。重治は広忠の子の家康に従った。永禄6年(1563年三河一向一揆が蜂起すると重治は子とともにその鎮圧に従う。翌永禄7年(1564年勝鬘寺の一揆衆が大久保忠勝忠世らの籠もる上和田砦に攻撃を加えた際、筒井定俊ら10騎とともに援軍として派遣された。これに力を得た大久保勢は一揆衆を針崎まで後退させたが、重治はそこで一揆衆の反撃に遭って戦死した。享年45[1][7][2][4]

土屋長吉について

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徳川実紀』などの徳川創業史は土屋長吉重治が三河一向一揆蜂起の際、当初は一揆方に属したとして以下のエピソードを伝える[注釈 2]。上和田砦の戦いで松平家康は自ら援軍として出陣したものの、却って危機に陥った。その様子を見た重治は主の危難を見過ごせないとして一揆方に矛を向け、ついに矢を受けて戦死した。戦闘の後、家康は石川家成に重治を探させてその死を惜しみ、戦死の地に手厚く葬ったのだという[5]。『家忠日記増補追加』は名を「土屋長吉郎」と載せ、享年23とする[8]

登場作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ a b 実名を重次[1][2]。また『三河志』は忠茂と載せる。忠成とする説もある[3][4]
  2. ^ a b ただし『岡崎市史』は上和田砦の戦いで活躍した土屋甚助と土屋長吉を同一人物としていない[5]

出典

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  1. ^ a b c d 上田 et al. 2001, § 土屋重治.
  2. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』, p. 228.
  3. ^ 『岡崎市史』8, p. 351.
  4. ^ a b 『三河志』, p. 353.
  5. ^ a b c 『岡崎市史』, pp. 392–393.
  6. ^ 『寛政重修諸家譜』, pp. 228–229.
  7. ^ 『岡崎市史』, p. 392.
  8. ^ 『岡崎市史』8, pp. 352–353.

参考文献

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  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 978-4-06-210800-3 
  • 岡崎市役所 編『岡崎市史』 1巻、名著出版、1972年。 
  • 岡崎市役所 編『岡崎市史』 8巻、名著出版、1972年。 
  • 寛政重修諸家譜』 9巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0213-0 
  • 『参河志』 上巻、愛知県郷土資料刊行会、1979年。