地黄煎
地黄煎(じおうせん)は、地黄(アカヤジオウ)の根を煎じた生薬、およびそれを添加して練った日本の飴である[1][2]。江戸(現在の東京都)では下り飴・くだり飴(くだりあめ)とも称した[1][2][3][4]。日本では膠飴(こうい)と表記し「じおうせん」「じょうせん」と読む場合もある[5]。
略歴
[編集]地黄(アカヤジオウ)の地下茎に補血・強壮・止血の作用があることは、古く『神農本草経』に記載されて知られていた。地黄を日本では別名で「佐保姫」と、春の女神の名で呼ぶ[6]。
平安時代(8世紀 - 12世紀)、宮内省典薬寮は、「供御薬」という宮中行事により、毎年旧暦11月1日、地黄煎を調達していた[7][8]。このことにより地黄煎の栽培・販売について、その後の供御人の身分が形成された[8]。典薬寮を本所とした、地黄煎の販売特権をもつ供御人による「地黄煎商売座」という座を形成、この座による販売人を「地黄煎売」(じおうせんうり)という[7][9]。産地は摂津国、和泉国、山城国葛野郡であった[8]。
中世(12世紀 - 16世紀)期の「地黄煎売」の姿は、番匠(大工)がかぶる竹皮製の粗末な笠である「番匠笠」、小型の桶を棒に吊るし振売のスタイルであった[7]。室町時代、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、糖粽(とうそう)を売る「糖粽売」とともに「地黄煎売」として紹介されている[7][10]。このころ振売を行っていた「地黄煎売」は、「飴売」とみなされていた[11]。
江戸時代(17世紀 - 19世紀)にも、飴としての「地黄煎」は製造・販売されており、1692年(元禄5年)に井原西鶴が発表した『世間胸算用』にも、夜泣きに効くという趣旨で「摺粉に地黄煎入れて焼かへし」というフレーズで登場する[4]。寛文元年(1661年)の加賀藩の資料によれば、石川県金沢市泉野町のあたりの旧町名は「地黄煎町」であった[12]。1695年(元禄8年)に発行された『本朝食鑑』には、膠煎(じょうせん)として紹介され、これを俗に「地黄煎」という、としている[5]。1712年(正徳2年)に発行された『和漢三才図会』によれば、膠飴(じょうせん)と餳(あめ)は湿飴(水飴)とは異なり、前者は琥珀色、後者は白色であり、煮詰めて練り固めて製造する膠飴のなかでも、切ったもの(切り飴)を「地黄煎」という、と説明している[5]。
脚注
[編集]- ^ a b 地黄煎、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年8月28日閲覧。
- ^ a b 地黄煎、大辞林 第三版、コトバンク、2012年8月28日閲覧。
- ^ 下り飴、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年8月28日閲覧。
- ^ a b 下り飴、大辞林 第三版、コトバンク、2012年8月28日閲覧。
- ^ a b c 近世における飴の製法と三官飴、北九州市立大学、2012年8月28日閲覧。
- ^ 大辞林 第三版『地黄』 - コトバンク、2012年8月28日閲覧。
- ^ a b c d 世界大百科事典 第2版『地黄煎売』 - コトバンク、2012年8月28日閲覧。
- ^ a b c 平凡社第6巻、p.650.
- ^ 奥野、p.117-118.
- ^ 小山田ほか、p.142.
- ^ 世界大百科事典 第2版『あめ売(飴売)』 - コトバンク、2012年8月28日閲覧。
- ^ 加賀藩、p.911.
参考文献
[編集]- 『加賀藩史料 自寛永18年至寛文2年』、著前田家編集部、出版石黒文吉、1981年
- 『平凡社大百科事典』第6巻「サ - シャ」、平凡社、1985年3月
- 『江戸時代の職人尽彫物絵の研究 - 長崎市松ノ森神社所蔵』、小山田了三・本村猛能・角和博・大塚清吾、東京電機大学出版局、1996年3月 ISBN 4501614307
- 『戦国時代の宮廷生活』、奥野高廣、八木書店、2004年 ISBN 4797107413