坂口れい子
坂口 䙥子(さかぐち れいこ、1914年9月30日 - 2007年2月6日)。「䙥」の字は平仮名や「零」「礼」の字を当てられることがある。日本統治下の台湾と戦後の日本の双方で活躍した小説家である。
経歴
[編集]熊本県八代市に山本慶太郎とマキの二女として生まれた。[1]父親は高田村(現八代市)の富農の出身で、30代で八代町長を務め辣腕を振った。マキは農家出身であるが、どんな人でも優しく平等に接するように教育した。代陽女子尋常小学校から、旧制八代中学に進み、2年生の時少女倶楽部に投稿した短編小説「こはれた時計」が特選となった。熊本女子師範学校(現熊本大学)1933年に卒業。母校代陽小学校の教員となる。1938年からは台湾の台中北斗小学校で小学校教諭を務めながら執筆活動を行う。1940年に歌の同人誌で知り合った坂口貴敏と結婚。1943年に『灯』で第1回台湾文学奨励賞受賞。1946年に引揚げ、八代商業高等学校などの教諭を務める。1953年に『蕃地』で第3回新潮社文学賞受賞。また、『蕃婦ロポウの話』(1960年)、『猫のいる風景』(1962年)、『風葬』(1964年)で3度の芥川賞候補に挙げられながら、賞に恵まれなかった。
作品
[編集]- 『鄭一家』:1941年、台湾総督府の機関誌台湾時報に発表。日本の皇民化(国語常用や改姓名)にゆれる台湾人のささやかな抵抗と矛盾、内台融和への懐疑を描き台湾の中心作家から激賞されれい子の名前は台湾中に知れ渡る。[2]
- 『時計草』:1942年発表。台湾人と日本人の婚姻を描いたが、当局により2枚を残し発禁処分となった。
- 『蕃地』:1945年4月-1946年1月、米軍の空襲のため、先住民族の地に疎開した。霧社事件の生存者や先住民族の娘と知り合い、先住民からの立場で描いた小説。新潮社文学賞を受賞。[3]
- 『蕃婦ロポウの話』:第44回芥川賞の最終候補に残ったが、決選投票で敗れた。
- 『猫のいる風景』
- 『風葬』
著書
[編集]- 『蕃地』1954年新潮社 内容は番地「蕃地」「ビッキの話」「霧社」
- 『蕃社の譜』1978年 コルベ出版社 内容は「蕃地」「蕃地のイヴ」「ダダオ・モーナの死」「ビッキの話」「蕃婦ロポウの話」
- 『霧社』1978年 コルベ出版社「霧社」「蕃地との関わり」
家庭生活と作家活動
[編集]れい子は母校代陽小学校教員時代、ある研究会で中学教師と恋に落ちたが、その教師は転勤する。大きな痛手を受けたことを、短歌に残している。台中北斗小学校教師時代、歌の同人誌で教師の坂口貴敏と知り合う。坂口は結婚していたが妻の急死の後求婚され、れい子は結婚した。[4]元台湾共産党員で作家が、日本が負ける前にれい子に言った。「あなたは幸い台湾本島人のことをかなり勉強した。蕃人の生活をみておくと、日本に持ち帰る唯一の財産だ。[5]46年3月基隆港から日本に引き揚げる。引揚げ後は、生活に苦しんだ。夫の酒乱と負債、そして急死。れい子は生きる苦しみの合間に、とぎれとぎれに作品を書いた。[3]
文献
[編集]- 小笠原淳 「坂口れい子の半生」熊本日日新聞 上 2013年11月15日 中 11月16日 下 11月17日
- 坂口れい子 『霧社』1978年 コルベ出版社