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垣内兼次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
垣内 兼次
時代 江戸時代初期
生誕 天正14年(1586年
死没 寛永7年12月20日1631年1月22日
改名 垣内藤丸、太郎兵衛
諡号 了入
墓所 紀伊国有田郡栖原村丸山西原
氏族 藤原菊池氏栖原垣内家
父母 垣内重久
妙円
垣内重胤
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垣内 兼次(かきうち かねつぐ)は江戸時代初期の豪族。紀伊国有田郡栖原村の豪商垣内太郎兵衛家3代目。房総半島の漁業に進出した。

生涯

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天正14年(1586年)[1]紀伊国栖原垣内家2代重久の子として生まれた[2]。幼名は藤丸[2]。農業は迂遠だとして、郷民に漁業を訓練させ、家来徳兵衛を駿河国に派遣し、吉原江尻間で操業させた[2]。数年後豊臣氏が失脚し、浅野氏紀州藩を治めると、重税のため兼次に従う郷民が増加したという[2]四国近海に海賊が出没すると、和泉国堺港に人を派遣して刀・槍・弓・銃を買い込み、武装して操業を行った[2]

浅野長晟に呼ばれ、家老亀田大隅を通じて家禄を打診されるも断った[2]慶長11年(1606年)10月有田郡沿海漁業の監督を命じられた[2]

豊臣氏滅亡後治安が安定すると、安房国一帯の漁業に進出した上、海運業にも手を広げ、藩に多額の税を納めた[2]。北は常陸国下総国、南は日向国薩摩国にまで漁場を拡大、寛永7年12月20日(1631年1月22日)45歳で病没し[2]、丸山西原に葬られた[3]

親族

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  • 祖父:垣内武行 - 初代太郎兵衛。
  • 父:垣内重久 - 2代目太郎兵衛。慶長17年(1612年)8月15日56歳で病没。諡号は等乗[4]
  • 母:妙海 - 西忠右衛門娘[5]
  • 姉妹 - 西半右衛門妻[5]
  • 姉妹 - 南荘右衛門妻[5]
  • 姉妹 – 浦野若右衛門妻[5]
  • 姉妹 – 北畠佐次右衛門妻[5]
  • 妻:妙円 – 北畠左衛門太夫娘[5]
  • 子:垣内重胤 – 4代目太郎兵衛。

脚注

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  1. ^ 山口 1999, p. 5.
  2. ^ a b c d e f g h i 菊池 1918, p. 3.
  3. ^ 湯浅町 1967, p. 852.
  4. ^ 菊池 1918, pp. 1–2.
  5. ^ a b c d e f 菊池 1918, p. 29.

参考文献

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  • 菊池三九郎『黄花片影』菊池三九郎、1918年4月。NDLJP:926715/12 
  • 湯浅町誌編纂委員会『湯浅町誌』湯浅町、1967年。 
  • 山口啓二「歴史と現在、そして未来 ―南紀栖原の豪商菊池家の文書整理を通じて見えてきたもの―」『名古屋大学日本史通信 ばさら』第2号、名古屋大学大学院文学研究科、1999年。