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垣内重胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
垣内 重胤
時代 江戸時代前期
生誕 元和元年(1615年
死没 宝永3年8月26日1706年10月2日
改名 垣内千丸、太郎兵衛
諡号 心了
墓所 施無畏寺
主君 徳川頼宣
紀州藩
氏族 藤原菊池氏栖原垣内家
父母 垣内兼次
妙成
垣内重信親泰心西常信
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垣内 重胤(かきうち しげたね)は江戸時代前期の豪商紀伊国有田郡栖原村垣内太郎兵衛家第4代目。紀州藩地士

生涯

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元和元年(1615年)[1]紀伊国栖原垣内家3代垣内兼次の子として生まれた[2]。幼名は千丸[2]。17歳で両親を失い、家業を継いで関東で漁業を行った[2]江戸幕府に薪の納入を命じられ、安房国で薪を伐採し、船に下賜された「宝」字の旗を掲げて江戸城に搬入した[2]

家来荘吉が酒造を得意としたため、先祖垣内武行が遺した大判10枚を出資し、栖原に醸造場を設置して荘吉に任せ、摂津国和泉国から多くの商人が買い求めに訪れた[2]。荘吉は有田郡吉川村西垣内出身で、兼次の代から垣内家に仕え、重胤が見込んで義弟としたが、子がなかった栖原村北村角十郎の求めでその跡継ぎとなり、重胤は50金と、武行妻白樫氏から伝来した金剛兵衛の古刀を授けた[3]。同村北嘉右衛門が漁業を廃した際、重胤はその漁具を買い取って荘吉の次男角兵衛に与え、相模国下浦で漁業を行わせた[3]

藩主徳川頼宣に度々招かれ、奉行菅沼九兵衛・代官寺島孫右衛門等を通じて60石と士分を打診されたが、これを固辞すると、永世地士に取り立てられて苗字帯刀を許され、2人扶持を賜った[2]

40代で長男垣内重信に家督を譲り、5人の子供に年齢で差をつけて家財を分配した[2]宝永3年(1706年)8月26日92歳で死去し、北山施無畏寺に葬られた[2]。死ぬまで病気もなく、意識も明瞭で、応答も流暢だったという[2]

親族

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  • 父:垣内兼次(第3代太郎兵衛、了入)
  • 母:妙円 – 北畠左衛門太夫娘[4]
  • 妻:妙成 - 川端助右衛門娘[4]
  • 長男:垣内重信(第5代太郎兵衛、了閑)
  • 次男:垣内親泰(太郎左衛門、了念) - 湯浅村に分家し、醤油を醸造した[5]
  • 三男:垣内心西(七兵衛) - 本家南に分家し[6]大坂東堀近江町に問屋荘太郎店を開いて綿糸を扱った[7]
  • 五男:垣内常信(半左衛門) - 本家北西に分家した[6]
  • 長女 – 久保清太郎妻[8]
  • 次女 – 谷輪新兵衛妻[8]

脚注

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  1. ^ 山口 1999, p. 5.
  2. ^ a b c d e f g h i 菊池 1918, pp. 3ウ-4オ.
  3. ^ a b 菊池 1918, p. 27.
  4. ^ a b 菊池 1918, p. 29.
  5. ^ 菊池 1918, p. 19.
  6. ^ a b 湯浅町 1961, p. 852.
  7. ^ 菊池 1918, pp. 22ウ-23オ.
  8. ^ a b 菊池 1918, p. 30オ.

参考文献

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  • 菊池三九郎『黄花片影』菊池三九郎、1918年4月。NDLJP:926715/12 
  • 湯浅町誌編纂委員会『湯浅町誌』湯浅町、1967年。 
  • 山口啓二「歴史と現在、そして未来 ―南紀栖原の豪商菊池家の文書整理を通じて見えてきたもの―」『名古屋大学日本史通信 ばさら』第2号、名古屋大学大学院文学研究科、1999年。