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垣内重信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
垣内 重信
時代 江戸時代前期
生誕 寛永17年(1640年
死没 享保4年9月27日1719年11月8日
改名 垣内三九郎、太郎兵衛、重兵衛、了閑
墓所 施無畏寺
主君 徳川光貞綱教吉宗
紀州藩
氏族 藤原菊池氏栖原垣内家
父母 垣内重胤、妙成
兄弟 親泰心西常信
妙順
垣内繁福東皐閑斎恂斎
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垣内 重信(かきうち しげのぶ)は江戸時代前期の豪農。紀伊国有田郡栖原村垣内太郎兵衛家第5代。

生涯

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寛永17年(1640年)紀伊国栖原垣内家第4代垣内重胤の長男として生まれた[1]。幼名は三九郎で、長じて太郎兵衛と称し、後に重兵衛(十兵衛[2])と改めた[3]。父が40代の時に家督を譲られた[4]伊藤仁斎に師事し、『』を愛誦し、家人・郷民を教え、子弟を伊藤東涯に入門させた[3]

天和末年徳川光貞に拝謁した際、「あなたの村の山林には猪・鹿が多いと聞く。狩りに行きたいので案内してくれ。」と言われたが、多忙のため実現しなかった[5]。数年後徳川綱教が竹元弥次郎・佐野新蔵等と有田郡吉川村鋳物師谷に出猟した際、垣内家屋敷を本陣とした[5]元禄9年(1696年)11月徳川吉宗が朝倉八郎右衛門・駒木根八兵衛等と栖原村北山に出猟した際、大国主神社前で拝謁し、再び垣内家に宿泊した[5]。吉宗はこの後にも2度宿泊した[5]

老後了閑と号した[2]。晩年財産を失って巨額の負債を抱え、先代から受け継いだ地士の地位を返上し、閉門謹慎した[3]。子供等に金銭を送られては借金の返済に充て、「私の財産はこの子供達だ。」と語った[3]享保4年(1719年)9月27日80歳で死去し、施無畏寺に葬られ、享保6年(1721年)9月子垣内繁福により墓碑が建てられた[2]

親族

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  • 父:垣内重胤(第4代太郎兵衛、心了)
  • 母:妙成 - 川端助右衛門娘[6]
    • 弟:垣内親泰(太郎左衛門、了念) - 湯浅村に分家し、醤油を醸造した[7]
    • 弟:垣内心西(七兵衛) - 本家南に分家し[8]大坂東堀近江町に問屋荘太郎店を開いて綿糸を扱った[9]
    • 弟:垣内常信(半左衛門) - 本家北西に分家した[8]
    • 姉妹 – 久保清太郎妻[10]
    • 姉妹 – 谷輪新兵衛妻[10]
  • 妻:妙順 - 芦内三郎左衛門娘[11]。男子5人・女子7人を儲け、その内男子1人、女子3人が夭折した[2]

脚注

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  1. ^ 山口 1999, p. 5.
  2. ^ a b c d 湯浅町 1967, p. 944.
  3. ^ a b c d 菊池 1918, p. 4ウ.
  4. ^ 菊池 1918, pp. 3ウ-4オ.
  5. ^ a b c d 菊池 1918, p. 26.
  6. ^ 菊池 1918, p. 29.
  7. ^ 菊池 1918, p. 19.
  8. ^ a b 湯浅町 1967, p. 852.
  9. ^ 菊池 1918, pp. 22ウ-23オ.
  10. ^ a b c d e f 菊池 1918, p. 30オ.
  11. ^ 菊池 1918, p. 29ウ.
  12. ^ 菊池 1918, p. 23ウ.
  13. ^ 菊池 1918, p. 23オ.
  14. ^ 菊池 1918, p. 11.

参考文献

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  • 菊池三九郎『黄花片影』菊池三九郎、1918年4月。NDLJP:926715/14 
  • 湯浅町誌編纂委員会『湯浅町誌』湯浅町、1967年。 
  • 山口啓二「歴史と現在、そして未来 ―南紀栖原の豪商菊池家の文書整理を通じて見えてきたもの―」『名古屋大学日本史通信 ばさら』第2号、名古屋大学大学院文学研究科、1999年。