垣内重信
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛永17年(1640年) |
死没 | 享保4年9月27日(1719年11月8日) |
改名 | 垣内三九郎、太郎兵衛、重兵衛、了閑 |
墓所 | 施無畏寺 |
主君 | 徳川光貞、綱教、吉宗 |
藩 | 紀州藩 |
氏族 | 藤原姓菊池氏栖原垣内家 |
父母 | 垣内重胤、妙成 |
兄弟 | 親泰、心西、常信 |
妻 | 妙順 |
子 | 垣内繁福、東皐、閑斎、恂斎 |
垣内 重信(かきうち しげのぶ)は江戸時代前期の豪農。紀伊国有田郡栖原村垣内太郎兵衛家第5代。
生涯
[編集]寛永17年(1640年)紀伊国栖原垣内家第4代垣内重胤の長男として生まれた[1]。幼名は三九郎で、長じて太郎兵衛と称し、後に重兵衛(十兵衛[2])と改めた[3]。父が40代の時に家督を譲られた[4]。伊藤仁斎に師事し、『魯論』を愛誦し、家人・郷民を教え、子弟を伊藤東涯に入門させた[3]。
天和末年徳川光貞に拝謁した際、「あなたの村の山林には猪・鹿が多いと聞く。狩りに行きたいので案内してくれ。」と言われたが、多忙のため実現しなかった[5]。数年後徳川綱教が竹元弥次郎・佐野新蔵等と有田郡吉川村鋳物師谷に出猟した際、垣内家屋敷を本陣とした[5]。元禄9年(1696年)11月徳川吉宗が朝倉八郎右衛門・駒木根八兵衛等と栖原村北山に出猟した際、大国主神社前で拝謁し、再び垣内家に宿泊した[5]。吉宗はこの後にも2度宿泊した[5]。
老後了閑と号した[2]。晩年財産を失って巨額の負債を抱え、先代から受け継いだ地士の地位を返上し、閉門謹慎した[3]。子供等に金銭を送られては借金の返済に充て、「私の財産はこの子供達だ。」と語った[3]。享保4年(1719年)9月27日80歳で死去し、施無畏寺に葬られ、享保6年(1721年)9月子垣内繁福により墓碑が建てられた[2]。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 山口 1999, p. 5.
- ^ a b c d 湯浅町 1967, p. 944.
- ^ a b c d 菊池 1918, p. 4ウ.
- ^ 菊池 1918, pp. 3ウ-4オ.
- ^ a b c d 菊池 1918, p. 26.
- ^ 菊池 1918, p. 29.
- ^ 菊池 1918, p. 19.
- ^ a b 湯浅町 1967, p. 852.
- ^ 菊池 1918, pp. 22ウ-23オ.
- ^ a b c d e f 菊池 1918, p. 30オ.
- ^ 菊池 1918, p. 29ウ.
- ^ 菊池 1918, p. 23ウ.
- ^ 菊池 1918, p. 23オ.
- ^ 菊池 1918, p. 11.