垣内東皐
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延宝8年(1680年) |
死没 | 享保17年8月14日(1732年10月2日) |
改名 | 垣内希八、全庵 |
別名 | 仲凱(字) |
墓所 | 中津安全寺、栖原施無畏寺 |
主君 | 奥平昌春 |
藩 | 豊前中津藩 |
氏族 | 藤原姓菊池氏垣内全庵家 |
父母 | 垣内重信、妙順 |
兄弟 | 垣内繁福、閑斎、恂斎 |
妻 | 妙真 |
子 | 垣内松渓(養子) |
垣内 東皐(かきうち とうこう)は江戸時代中期の儒医。紀伊国栖原村出身。伊藤仁斎門下。豊前中津藩医。
生涯
[編集]延宝8年(1680年)[1]紀伊国栖原垣内本家第5代垣内重信の次男として生まれた[2]。幼名は希八[2]。幼くして読書を好み[1]、父に倣って伊藤仁斎・東涯に入門して[2]10年余り師事し、同時に医術も学んだ[1]。修業後江戸に出て名声を広め[1]、享保元年(1716年)9月岡島冠山『唐話纂要』に「白樫仲凱」の名で跋を寄せ[3]、享保2年(1717年)春紀州藩主に拝謁した[1]。
享保9年(1724年)秋[1]豊前中津藩主奥平昌春侍医となり、世継ぎの侍読を兼ね、200石10人扶持を賜り[2]、和歌の相手も務めた[4]。享保17年(1732年)6月病気のため退職し、海路帰郷しようとしたが[5]、出発して2日後に世継ぎが危篤になり、急遽哨戒船で呼び戻された[6]。殿上で杖の使用を許され、数度の投薬により嫡子は全快したが、自身の病気は悪化し、8月14日中津の旅館で死去し[5]、同所安全寺に葬られた[4]。妻妙真とまだ幼い養子松渓は、喪が明けた後紀州に戻り、遺言を伝えた[7]。
享保19年(1734年)6月祇園南海が追悼詩を詠んでいる[8]。安政6年(1859年)3月孫鷹子により故郷施無畏寺に石田冷雲撰・書「東皐垣内先生碑」が建てられた[9]。
著書
[編集]親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f 有田郡 1915, p. 455.
- ^ a b c d 菊池 1918, p. 23ウ.
- ^ 『唐話纂要』巻6後1オ - 国立国語研究所日本語史研究資料
- ^ a b c d e f g 菊池 1918, p. 24オ.
- ^ a b c 有田郡 1915, p. 456.
- ^ a b 勝田 1935, p. 22.
- ^ 湯浅町 1967, pp. 956–957.
- ^ 杉下 2014, pp. 46–47.
- ^ 勝田 1935, pp. 21–22.
- ^ 理気辨論続貂 - 国文学研究資料館
- ^ a b c d e f 多紀 1937, p. 74.
- ^ 東皐文集 - 国文学研究資料館
- ^ 菊池 1918, p. 29ウ.
- ^ 湯浅町 1967, p. 944.
- ^ 菊池 1918, p. 23オ.
- ^ 菊池 1918, p. 11.
- ^ a b c d 菊池 1918, p. 30オ.
- ^ a b 菊池 1918, p. 24ウ.
参考文献
[編集]- 『和歌山県有田郡誌』和歌山県有田郡役所、1915年5月 。
- 菊池三九郎『黄花片影』菊池三九郎、1918年4月。NDLJP:926715/33。
- 勝田良太郎「垣内東皐ノ墓」『和歌山県史蹟名勝天然紀念物調査会報告』第14号、和歌山県、1935年4月。
- 多紀仁『南紀先賢列伝』 第1編、和歌山県教育会、1937年12月。NDLJP:1115537/44。
- 湯浅町誌編纂委員会『湯浅町誌』湯浅町、1967年。
- 杉下元明「祇園南海の壮年時代」『日本漢文学研究』第9号、二松学舎大学東アジア学術総合研究所、2014年3月、CRID 1050001338033225216。