塚田牛乳
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
日本 〒959-2221 新潟県新潟市江南区木津工業団地2番1号 |
設立 | 1951年(昭和26年)(創業:1901年(明治34年)) |
業種 | 食料品 |
事業内容 | 牛乳、乳製品及び関連食品の製造・販売 |
代表者 | 代表取締役社長 塚田忠幸 |
資本金 | 1000万円[1] |
従業員数 | 52人(2021年5月現在) |
外部リンク | https://www.tsukadamilk.com/ |
塚田牛乳(つかだぎゅうにゅう)は、新潟県新潟市江南区に本社を置き主に乳製品を販売している企業。
概要
[編集]牛乳やコーヒー牛乳などの瓶・紙パック製品を製造しており、販売店を通じて主に新潟県内で宅配をしている他、学校給食用や量販店向けに商品を販売している[2]。安全面に力を入れており、食品衛生管理手法のHACCPを新潟県内の牛乳メーカーでは最初に取得している[3]。
歴史
[編集]1901年(明治34年)に、西頸城郡名立町で米麹の行商をしていた塚田甚太郎により創業。甚太郎は、15歳で1頭の乳牛を飼い、牛乳の製造販売を始め、生乳をブリキ缶に入れて長い柄杓で量り売りをして歩いた。当時は牛乳は生産量が少なく貴重品であり、「牛3頭いれば子どもを大学に出せると言われるほど価値が高かった」[1]。
1925年(大正14年)に甚太郎は新潟市白山浦に移り、牧場で乳牛を15頭を飼い、事業拡大を目指した他、農家に牛の飼い方を指導したり牛の購入代金を貸したりして、酪農家の育成にも力を注いだ。甚太郎は「牛が好きで酪農の知識や経験が豊富だった。周囲から『牛の神様』と呼ばれていた」[1]。
戦前から戦後にかけて新潟県内には明治乳業や森永乳業、雪印乳業などの大手メーカーが相次いで参入し、ピークの1961年(昭和36年)には246社がひしめいた。原料の生乳確保が最重要課題となり、塚田牛乳は中蒲原郡の酪農家を中心に酪農組合を独自に結成し、大手と肩を並べるほど急成長した。1964年(昭和39年)の新潟国体では、昭和天皇に牛乳を献上した[1]。
1964年(昭和39年)の新潟地震により工場が被害を受けたが、三条や燕、長岡市などの乳業メーカーからの協力も受けて被害を克服。1967年(昭和42年)には新工場が完成して、製造設備は1日あたり30万本と、当時の北陸随一の規模を誇った[4]。
1960年代に牛乳の宅配網を築いたことと、1964年から牛乳が学校給食に採用されたことで、経営が安定。商品もヨーグルトやコーヒー牛乳など多様化した[4]。
1980年(昭和55年)に江南区の木津工業団地の1600平方メートルの敷地に移転したが、その後、新潟県内の牛乳の消費量が減少。塚田牛乳は紙パック用充填機をいち早く導入し、宅配を見直した他、限定商品を開発して量販店向けと差別化を図った[3]。
2000年(平成12年)に発生した雪印集団食中毒事件を受けて、大手メーカーの工場が新潟県内から撤退、新潟県内のメーカーも廃業が進む中、売り上げの半分を占める宅配をメインにして活路を探っている[3]。
出典
[編集]- ^ a b c d e 「[にいがたの老舗 100年の系譜]健康届ける 塚田牛乳(新潟市江南区)(上) 牛1頭を元手に創業 飲む習慣普及生産急増」『新潟日報』2009年11月8日、2経-10版 朝刊、6面。
- ^ 「塚田牛乳(新潟・江南区) 瓶製品の安全性強化 洗浄、充填機などを刷新」『新潟日報』2018年11月2日、2経-10版 朝刊、6面。
- ^ a b c 「[にいがたの老舗 100年の系譜]健康届ける 塚田牛乳(新潟市江南区)(下) 差別化へ新商品投入 宅配を中心に活路探る」『新潟日報』2009年11月22日、2経-10版 朝刊、10面。
- ^ a b 「[にいがたの老舗 100年の系譜]健康届ける 塚田牛乳(新潟市江南区)(中) 震災時、機械借り製造 給食採用売り上げ安定」『新潟日報』2009年11月15日、2経-10版 朝刊、10面。