塩谷盛朝
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時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 嘉禎3年2月17日(1237年3月15日) |
死没 | 徳治2年12月9日(1308年1月3日) |
戒名 | 観性法悦大禅定門 |
墓所 | 長興寺 |
官位 | 従五位下、周防守、民部大輔 |
氏族 | 塩谷氏 |
父母 | 父:塩谷泰朝 |
兄弟 |
盛朝、朝宗、朝基、業泰?[1]、重朝、 横田親業室 |
子 | 朝定、高朝 |
塩谷 盛朝(しおのや もりとも)は、下野国塩谷郡の鎌倉時代の武将。
略歴
[編集]川崎城主。塩谷泰朝の嫡男で、泰朝の跡を継いで塩谷氏の当主となるが、同時代の事績には、弟の朝基のものは見られるが、盛朝のものはほとんど見られず、弘安6年(1283年)に編纂された沙石集に盛朝の歌が収録されているが、この時、父泰朝の死から5年しか経っておらず、本人も47歳(数え年)であったにもかかわらず、塩谷民部入道を名乗っているため、盛朝は、政務の表舞台から早々と一線を退き、弟などに政治や軍事の実務を任せていたものと考えられている。沙石集には、盛朝の歌が2首載せられているが、その1首目の前置きに「塩谷民部入道ト聞シ歌人也、他力本願ノ心ヲ…」とあり、この説を裏付けている。
徳治2年(1307年)12月9日没。享年71。観性法悦大禅定門。
脚注
[編集]- ^ 「藤氏道兼公孫」という系図によると朝基と重朝の間に業泰という子がいたとされるが、その他の系譜には登場しない。