塩谷義孝
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 長享2年1月5日(1488年2月17日)[1] |
死没 | 永禄7年[2]10月7日(1564年11月10日) |
別名 |
藤千代丸、弥六郎、塩谷太郎、 由綱(よしつな)[3] |
戒名 | 長松院殿実山蓮信大居士 |
官位 | 伯耆守、民部大輔 |
氏族 | 塩谷氏 |
父母 | 父:塩谷孝綱 母:塩谷隆綱娘? |
兄弟 | 義孝、義尾、孝信[4] |
妻 |
正室:高塩政平娘(のちに宇都宮広綱養女)[5] 側室:岡本正重娘 |
子 | 義通、義綱、福原晴資室[6] |
塩谷 義孝(しおのや よしたか)は、下野国塩谷郡の国人武将。
生涯
[編集]塩谷孝綱の嫡男として生まれた義孝は、永正11年(1514年)以前に父孝綱の隠居により家督を継ぐ[7]。天文15年(1546年)10月19日に孝綱が没すると、弟の孝信が喜連川塩谷氏の養子となりその家督を継いでいたが、義孝と孝信の関係が徐々に悪化していく。この時、義孝は宇都宮家から正室を迎えているが、孝信は宇都宮氏と対立する那須氏の家臣大関氏より妻を迎えていたため、これをきっかけに不和になったと言われている[8]。
義孝が塩谷家の当主となって以降、沢村城やその周囲の土地を中心に、塩谷氏と那須氏の対立が激化するが、義孝の時代は、塩谷側がやや有利な状況であった。しかし、那須側であった弟の孝信は、永禄7年(1564年)10月7日夜、義孝の居城である川崎城に16騎の精鋭とともに侵入し、孝信に寝返った木村和泉が城内にいて手引きし、本丸で就寝していた義孝は孝信の手勢によって殺害される。木村和泉は、沢村城代にも名を連ねる義孝が信頼する重臣であった。享年77。
脚注
[編集]- ^ この生年は秋田塩谷系譜に基づくものだが、義孝の父孝綱と義孝が寄進したと伝えられる薬師如来立像にある胎内の銘文には、永正11年(1514年)11月吉日の日付とともに、義孝は藤千代丸の名で刻銘されており、系譜が正しければ、この時義孝は27歳(数え年)になっており、幼名である藤千代丸の名で記されているのはおかしいという観点、さらに長子である義通が誕生した時、この生年が正しければ義孝はこの時59歳にもなってしまうという観点から、この生年については疑問も呈されている。
- ^ 永禄9年(1566年)付けの義孝の書状が残るので、この時まで義孝が生きていたとする説がある。しかしながら、この説の根拠となる書状には「塩谷左衛門」と書かれており、この名は、塩谷一族が多く名乗っており、これだけでは、この塩谷左衛門が義孝とは特定出来ない。
- ^ 多くの文献では「義孝」の名で記されており、義孝の名の方が知られているが、義孝が、父孝綱の死後に父のために天文18年(1549年)6月6日に建立した石地蔵には「長子 由綱」と刻銘しており、この事から、由綱の方が正式な名前であったとの指摘もある。
- ^ ただし、秋田塩谷系譜には、義尾や孝信の名は見えず、塩谷盛綱(長門守)、泰成、宗親という弟がいたとする。
- ^ 高塩氏系図
- ^ ただし、秋田塩谷系譜には、義通や義綱の名は見えず、塩谷時綱、忠綱、時業という子がいたとする。
- ^ 『栃木県史 資料編・中世四』掲載 塩谷孝綱寄進状には、永正十一年十月十四日の日付に続き「前伯耆守藤原朝臣孝綱」とあり、この頃、若しくはこれ以前に、孝綱が隠居していた事がうかがえる。
- ^ 『那須記』は、義孝が父孝綱の死後、孝信に相談もなく宇都宮家から養子を迎えたことがきっかけで不和になったするが、義孝が宇都宮家から養子を迎えた事実はなく、宇都宮広綱の養女を妻とした事と混同している。