多田満長
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多田 満長 ただ みつなが | |
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多田満長 | |
生年月日 | 1886年4月14日 |
出生地 |
日本 千葉県君津郡神納村 (現千葉県袖ケ浦市) |
没年月日 | 1951年2月9日(64歳没) |
出身校 | 早稲田大学政治経済科卒業 |
前職 | ジャーナリスト |
所属政党 |
立憲民政党 日本進歩党 |
多田 満長(ただ みつなが、1886年(明治19年)4月14日[1] – 1951年(昭和26年)2月9日[2])は、日本のジャーナリスト・政治家で立憲民政党所属の衆議院議員。
経歴
[編集]千葉県君津郡神納村(現在の袖ケ浦市)出身。多田子之助の二男として生まれ[3]、兄の昌太郎は君津郡会議員・神納村長を務めた[4]。千葉師範学校に入学するが、病のため退学した[4]。その後明治学院を経て、1911年(明治44年)に早稲田大学政治経済科を卒業した[1]。卒業後は大日本通信社を創設し、社長を務めた。
1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に民政党公認で出馬し初当選[5]。5回連続当選を果たした。その間、廣田内閣で逓信参与官を、阿部内閣で外務政務次官を務めた。政党解消後は翼賛議員同盟・翼賛政治会・大日本政治会に所属し[6]、戦後は日政会を母体として結党された日本進歩党に所属したが[7]、1946年(昭和21年)、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった[8]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 寺田瑛『千葉県十傑列伝』報知新聞社、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 『昭和十一年度版 帝国人事大鑑』帝国日日通信社、1935年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。