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大伴是成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大伴 是成(おおとも の これなり、生没年不詳)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族官位従五位上近衛少将

経歴

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桓武朝延暦10年(791年従五位下叙爵する。延暦14年(795年信濃国介石川清主が命中しなかったもののを射かけられる事件が発生する。まず、従五位下・藤原都麻呂が派遣されて犯人を捜索するも捕らえることができず、次に衛門佐官職にあった是成が遣わされて、信濃国小県郡人の久米舎人望足に対して尋問を行ったところ、望足は罪状を認め讃岐国への流罪に処された[1]

延暦18年(799年兵部大輔中衛少将春宮亮の官職にあったが、伝燈大法師位・泰信らとともに淡路国へ派遣され、奉幣して早良親王に謝罪を行う。翌延暦19年(800年)桓武天皇のにより、早良親王を崇道天皇と称し、井上内親王皇后に戻して、二人の墓を山陵と改称することになった際、是成は陰陽師衆僧を引率して、淡路国にある崇道天皇の山陵を鎮め謝罪した[2]

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 『日本後紀』延暦18年2月15日条
  2. ^ 『日本後紀』延暦19年7月23日条

参考文献

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