大岡忠要
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 明和3年12月8日(1767年1月8日) |
死没 | 天明6年9月23日(1786年10月14日) |
別名 | 式部(通称) |
墓所 | 玉峰山龍門寺 |
官位 | 従五位下式部少輔 |
幕府 | 江戸幕府 泰者番 |
藩 | 武蔵国岩槻藩主 |
氏族 | 大岡氏 |
父母 | 父:大岡忠喜 |
兄弟 | 忠要、忠烈 |
子 | 養子:忠烈 |
大岡 忠要(おおおか ただとし)は、江戸時代中期の大名。武蔵国岩槻藩第3代藩主。大岡忠房家6代当主。大岡忠喜の長男。
天明元年(1781年)、10代将軍徳川家治に拝謁し、従五位下式部少輔に叙任する。天明2年(1782年)、父・忠喜の隠居により家督を継ぐ。就任してまもなく、天明の大飢饉が起こり、同時に天災続きで岩槻藩は財政難に陥ったため、忠要は藩士の児玉南柯を勝手向取締役に任命して、厳しい倹約令を布き、岩槻藩の財政改革を実施させたが、危機の打開には至らなかった。天明5年(1785年)に奏者番に就任するが、翌天明6年(1786年)、父・忠善に先立って死去した。享年21。
家督は弟の忠烈が継いだ。
系譜
[編集]父母
- 大岡忠喜(父)
養子
- 大岡忠烈 ー 実弟