大島光俊
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大島 光俊(おおしま みつとし、元亀3年(1572年)- 元和4年7月18日(1618年9月6日))は戦国時代の武将。大島光義の三男。母は武市通春の娘。別名は光定、光重。通称は久左衛門。子に大島義治、大島光隆。
生涯
[編集]父光義を主として、加治田衆の兄光政と共に従軍する。織田、斎藤、丹羽、豊臣、徳川に仕える。関ヶ原の戦いでは、光政と共に西軍に加わり、父光義、長兄光成、弟光朝は東軍に分かれる。戦後、父と兄弟の活躍により、徳川家康に従う。父の死後に遺領の中から摂津国豊島郡、美濃国席田郡上保村 1113石8斗1升9合946・加茂郡下迫間村 386石1斗7升9合993・大野郡・内の計3250石を分与される。
江戸幕府では旗本寄合席となり、迫間大島氏の初代となり、明治まで続き、子孫は現在も続く。墓所は関市迫間の大雲寺。
参考文献
[編集]- 『丹羽家譜伝』
- 『新訂寛政重修諸家譜2』
- 『丹羽歴代年譜付録』