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大島哲以

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大島 哲以(おおしま てつい、1926年3月2日1999年4月12日)は、日本画家。1971年に文化庁在外研修員として渡欧し、ウィーン幻想派のリーダー的な存在であったフッターに師事。擬人化した動物や植物をモチーフとして、独特な世界観の作品を残した。中井英夫赤江瀑といった作家の装丁画を手がけたことでも知られている。

概要

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生と死という人間にとって根源的な2つのテーマを幻想画に描き続け、戦後芸術の幻想絵画を代表する日本のシュールレアリズムを論じる時、欠かすことができない作家。22歳の時、日本画の中村貞以にし、院展、新制作展に発表を続けた。1971年、日本画として初めて文化庁在外研修員として渡欧、フッターフックスに出会い、混合技法を学ぶ。ウィーンブリューゲル[要曖昧さ回避]ボッシュなどの中世画と巡り会うのと前後して、中村正義らとともに「異端の日本画家」と呼ばれるようになる。日本画、洋画という壁を超えて「エロスをいかに白日の元でいかに美化できるか」をテーマに、バラと女をモチーフにした「薔薇刑」を描き続けた。

年譜

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  • 1926年–名古屋市東区に生まれる。※本名:寿康
  • 1932年–大阪に転居。父の影響で音楽、文学に親しむようになる。
  • 1945年–大阪理工科大学在学中に大空襲を受ける。「原爆は忘れえぬ記憶、グラマンの機銃掃射の中、ドボルザーク新世界を聞いたのが唯一の救いだつた」
  • 1948年–中村貞以に師事。第33回院展 ※〜1954年まで出品
  • 1955年–上京する。
  • 1960年–第24回新制作協会展  ※1969年まで出品
  • 1964年–第6回現代日本美術展(東京都美術館)、個展(名古屋丸栄)
  • 1966年–朝日秀作美術展(日本橋三越)、針生一郎の選んだーこれが日本画だ〈25人〉展(日本画廊)、第1回戦争展(日本画廊)
  • 1967年–第2回ジャパン・アート・フェスティバル ※アメリカ巡回
  • 1968年–第8回現代日本美術展(東京都美術館)
  • 1969年–日本画の新人たち(京都国立近代美術館)
  • 1970年–日本万国博覧会美術展(大阪)
  • 1971年–文化庁在外研修員として渡欧。※〜1972年 ウィーン工芸大学に学ぶ
  • 1973年–個展「日本幻想絵画の明星」(日本橋三越) ※大島哲以作品集「失われた風景」羽黒洞発行
  • 1974年–第1回人人展「黒い太陽–七人の画家」(日本橋・三越)※以降、第7回展(1981年)まで出品し、退会
  • 1975年–第3回インドトリエンナーレ(ニューデリー)、第1回東京展(東京都美術館)
  • 1979年–第1回日本秀作美術展(日本橋・高島屋)、「林檎の木のうた」(童心社)刊行  ※詩:神沢利子 画:大島哲以
  • 1981年–幻視の森「今日のシュールレアリズム展」(東京セントラル絵画館)
  • 1982年–幻視者たち ドイツ巡回展(ケルン文化センター・ヴィルツブルグ美術館)
  • 1984年–個展(名古屋・丸栄)、国際形象展(日本橋三越)
  • 1986年–現代日本美術展(ケンブリッジ他)
  • 1988年–20世紀絵画の展開(名古屋市美術館)
  • 1989年–「タランの白鳥」(福音館書店)刊行  詩:神沢利子 画・装丁:大島哲以
  • 1993年–個展(名古屋・丸栄)、JAG展(池田20世紀美術館)
  • 1995年–個展「薔薇刑〜大島哲以の世界〜」(アートミュージアム・ギンザ)
  • 1999年–第25回人人展「四半世紀を振り返る創立メンバー特別展」(東京都美術館)、4月12日逝去 ※73歳