大成丸 (初代)
大成丸 (初代) | |
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ブリスベンを訪れた本船 | |
基本情報 | |
船種 | 航海練習船(練習帆船) |
船籍 | 日本 |
所有者 |
文部省(1904-1943) 逓信省(1943-1945) |
運用者 |
東京高等商船学校 航海訓練所 |
建造所 | 川崎造船所神戸工場 |
建造費 | 50数万円 |
経歴 | |
進水 | 1903年12月2日 |
竣工 | 1904年 |
就航 | 1904年 |
最後 | 1945年10月9日、神戸港で触雷沈没 |
要目 | |
総トン数 | 2,224 トン |
全長 | 82.3 m |
幅 | 12.8 m |
深さ | 8.22 m |
大成丸(たいせいまる)は、日本の航海練習船。本項目では、1904年に建造された初代を取り扱う。
船歴
[編集]本船以前の大型練習船としては、日本初の大型練習船として1897年(明治30年)に建造された月島丸があった。月島丸は日本の練習船として初めて太平洋往復を果たすなど活躍したが、1900年(明治33年)11月17日に駿河湾沖で台風による荒天で遭難、123名が死亡する重大海難となった。
月島丸の喪失を受け、代船として大馬力の補助機関を有する堅牢で安全な大型帆船を国内建造することとなり、川崎造船所神戸工場で起工、1903年(明治36年)12月2日に進水、大成丸と命名された。日露戦争開戦の年に竣工した本船は、さっそく海軍に徴用され、試運転後は帆装を取り外し輸送船として軍事輸送に従事した。
その後、徴用を解かれ、帆装を復旧して練習船として復帰、1906年(明治39年)10月に最初の遠洋航海を行った。
1910年(明治43年)10月26日、本船は第6次遠洋航海として横浜港から一度目の東回り世界一周航海に出発した。実習生94名を含む154名が乗船、出発前日には当時の逓信大臣後藤新平が来船、訓示の後、自署入りの扇子とハンカチを乗員全員に贈った。フランス領タヒチ、フォークランド諸島スタンリー、ケープタウン、メルボルンを経由、2度の暴風に遭遇しながらも航海日数307日、航海距離約56,300kmを経て、1911年(明治44年)8月25日に横浜港に帰港した。
1912年(明治45年)7月上旬、本船は館山港から再び東回り世界一周航海に出発した。実習生125名を含む180名が乗船、サンディエゴ、ケープタウン、セントヘレナ、リオデジャネイロ、フリーマントル、南洋諸島を経て帰港したが、北大西洋を航行中に明治天皇崩御の報に接したのを皮切りに、2度目の世界一周航海は苦難の連続であった。
サンディエゴでは船長が突如下船し、後任の船長が赴任するまで47日間に渡って同港で停泊、その間に三等運転士が病死した。その後も、無風、荒天に見舞われ、南インド洋では一か月余り晴天がなく栄養失調もあり、70名以上が脚気を発症、学生2名、大工1名が病死した。航海日数456日、航海距離3万6,377海里を経て、1913年(大正2年)12月中旬に帰港した。この航海には、後に初の労働大臣となる米窪満亮が乗船しており、乗船記を「大成丸世界周遊記」として『東京朝日新聞』に連載、夏目漱石の激賞を受けた。周遊記は米窪太刀雄の筆名で『海のロマンス』と改題して単行本として出版され、漱石が序文を寄せた。この単行本はベストセラーとなり、商船学校や海軍兵学校への志願者が増加したと言われている。
その後も練習船として遠洋航海を続けた。1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[1]。1941年(昭和16年)に再び海軍に徴用され、帆装を取り外し輸送船として石炭輸送に従事した。無事終戦を迎えたが、直後の1945年(昭和20年)10月9日11時頃、神戸港内でアメリカ軍の残存機雷に触雷して沈没、実習生31名が死亡した。
就航から沈没までの間、本船は約630,000海里を航行、63回の遠洋航海を行い、学生2,330名(延べ8,873名)が乗船した。船名の銘鈑はパネルに加工され、1954年(昭和29年)に就役した2代目大成丸の船内に展示された。このパネルは2014年(平成26年)に就役した4代目大成丸でも展示されている[2]。
設計
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4本マストのバーグ型帆船で総帆数26枚であった。