大森好輝
大森 好輝(おおもり よしてる、元和8年(1622年) - 貞享元年3月20日(1684年5月4日))は、江戸時代前期の武士、旗本。大森親好から数えて4代目当主。通称は猪之助、半七郎。増長改め好輝。徳川家光、徳川家綱に仕えた。父は大森好長。母は加藤重正の娘。弟の三義は、加藤重正の養子となる(加藤重長)。妻は甲斐庄正述の娘。養子に大森勝長(鳥居忠春二男、勝長の妻は大森好輝の娘でいわゆる婿養子)、忠長(松平乗久六男、病身のため実家へ戻る)がいる。6代目当主にあたる大森時長は、使番、目付、長崎奉行(1732年-1734年)などを務めた。
生涯
[編集]大森家は、三河以来の家臣(三河武士)である。 大森好輝は、寛永11年(1634年)徳川家光に拝謁。寛永15年(1638年)書院番、本多美作守組に御番入り。 正保3年(1646年)に遺跡を継承する。万治元年(1658年)小日向および小石川築地の奉行を勤める。 寛文元年(1661年)8月徒歩頭。同年10月伝奏屋敷評定所修復の命をうけたまわる。同年12月布衣の着用を許される。寛文2年(1662年)京都で地震(寛文近江・若狭地震)があり、渡辺筑後守正と共に二条城、大坂城ならびに駅路を巡視した。寛文3年(1663年)徳川家綱の日光社参に随行した。延宝3年(1675年)留守居役。延宝5年(1677年)お勤めを辞し小普請入り。貞享元年(1684年)3月20日死去。享年63。江戸小石川小日向台町の清巌寺に葬られた。その後、清巌寺は代々大森家の葬地となった。葬地を知行地から江戸にかえて、日常的な生活基盤を江戸屋敷に移したと考えられる。[1]
なお、清巌寺は、好輝の母方の祖父加藤重正を開基とする。大正11年(1922年)、東京市都市計画道路拡張のため、市外西巣鴨町字庚申塚(現在の豊島区西巣鴨4丁目)に移転している。
脚注
[編集]- ^ 『入間市史 通史』. 入間市史編纂室. (平成6年8月31日)
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜 第2輯』、國民圖書、1923年、724頁。NDLJP:1082719/372。
- 『入間市史 通史編』、入間市史編纂室、1994年、354頁。