大橋佐平
おおはし さへい 大橋 佐平 | |
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大橋佐平 | |
生誕 |
1836年2月8日 越後国古志郡長岡城下 (現新潟県長岡市) |
死没 |
1901年11月3日(65歳没) 東京市麹町区上六番町(自邸、現千代田区三番町) |
墓地 | 養福寺(東京都荒川区) |
国籍 | 日本 |
職業 | 出版者、実業家 |
著名な実績 | 博文館創業 |
配偶者 | 大橋松子 |
子供 | 大橋新太郎、大橋省吾、大橋乙羽(婿養子)、大橋光吉(婿養子) |
親 | 渡辺又七、与瀬 |
大橋 佐平(おおはし さへい、1836年2月8日〈天保6年12月22日〉 - 1901年〈明治34年〉11月3日)は、明治時代の実業家で、博文館創業者。
妻の弟は東京堂創業者の高橋新一郎。三男(長男と次男は早逝)は博文館第2代館主の大橋新太郎、四男は東京堂第2代主人の大橋省吾。長女の婿は博文館支配人で小説家の大橋乙羽、三女の婿は共同印刷創業者の大橋光吉[1][2]。
経歴
[編集]- 天保6年12月22日[3](1836年2月8日) - 越後国古志郡長岡城下(現新潟県長岡市)で生まれる。幼名熊吉。家業の材木商を手伝う。
- 嘉永2年(1849年) - 長岡の飛脚西川屋に従い上京。智積院にいた叔父(母の実弟)法如を訪ね、畿内の寺社を巡拝し、長崎まで旅行し、伊勢から江戸へ出、上州を経て帰郷。
- 安政3年(1856年) - 長岡裏一ノ町に酒店を開き三国屋佐平と称し、長岡藩の御用達となる。
- 万延元年(1860年) - 魚沼郡関の上村新左衛門の長女松子と結婚。
- 元治元年(1864年) - 母の死去にともない、叔父法如(乙宝寺二十世住職鑁順)の真言宗で葬られたいという遺志により、空き戸籍を継ぎ、大橋姓を名乗る。
- 明治元年(1868年) - 北越戦争、佐平は恭順派に属し、官軍との折衝にあたる。
- 明治2年(1869年) - 越後府御用掛を命じられ、民政所軍事方兼学事方となる。
- 明治4年(1871年) - 小学校新設に尽力。長岡郵便局長となる。
- 1880年 - 同志とはかって「北越新聞」を創刊。
- 1887年 - 上京し、本郷弓町の家を購入し、博文館の看板を掲げ「日本大家論集」を創刊。
- 1888年 - 「日本之殖産」「日本之法律」「日本之時事」「日本之兵事」「日本之警察」などの雑誌を創刊。
- 1890年 - 「日本文学全書」を発刊。
- 1891年 - 「温知叢書」「日本文庫」などを発刊。
- 1892年 - 博文館本社を日本橋区本町三丁目へ移す
- 1893年 - 「帝国文庫」を発刊。3月より11月までシカゴの世界大博覧会を見学し、欧州を巡歴して帰国。
- 1894年 - 内外通信社を創設。通信事業に進出。
- 1895年 - 「太陽」「少年世界」「文芸倶楽部」の博文館三大雑誌を創刊。事業を息子の新太郎に一任して引退。小石川戸崎町の別邸に移る。
- 1897年 - 洋紙販売と印刷業の博進社を創立。
- 1898年 - 東京奠都三十年祭を主唱して奔走。
- 1900年 - 麹町区上六番町(現千代田区三番町)の川上操六旧邸を購入して転居。邸内に大橋図書館を着工。
- 1901年 - 胃癌のため11月3日、麹町区上六番町(現三番町22番地)の自邸で死去。法名:如実院殿唯心一阿居士。西日暮里養福寺に埋葬。
人物
[編集]越後長岡の商家に生まれ、幼時より行動力と賢明さをそなえて期待された。また母の薫陶を受けて、仏教の信仰に厚く、僧にすることも親族の間で話し合われたという。
15歳のとき、真言宗の僧籍にある叔父を頼って上京し、九州から江戸を回る大旅行を経験して見聞を広め、長岡藩御用達の家業を守りつつ、幕末激動の時代を過ごした。
長岡藩の佐幕方針に反対し、恭順派に属して官軍との折衝に貢献する。これによって信頼を得、北越戦争によって、旧幕時代の体制が崩壊した長岡にあって、早くから新政府の役職を拝命し、学校や交通事業を立ち上げ、長岡の復興につくした。また水運や新聞などの流通・情報事業に将来性を見出し、「北越新聞」や「越佐毎日新聞」を創刊し、出版事業にも進出した。
1886年、上京した佐平は、大衆向けの教養雑誌として「日本大家論集」を発刊した。引き続きさまざまな分野の教養ダイジェスト雑誌を廉価で発刊し、これが多数の読者に受け入れられた。続いて一般向けの教養図書を、さまざまなシリーズ形式で廉価で販売したことにより、博文館の出版事業は急速に拡大した。
博文館の出版事業は、息子の大橋新太郎によって継承され、近代的な企業集団として成長し、印刷から販売にいたる出版コンツェルンを形成した。
著作
[編集]著書
[編集]主な刊行雑誌
[編集]主な出版物・シリーズ物
[編集]親族
[編集]- 妻:大橋まつ(1840-1917)。佐平との間に五男二女(次男・四男は早世)をもうける[4]。
- 子:大橋新太郎(1863年生)、大橋省吾(1867年生、東京堂社長)、大橋幹二 (1876年生、東京堂監査役)、大橋とき(大橋乙羽の妻)、大橋こう(1881年生、大橋光吉の妻)、大橋邦之助(1893年生)、石原房(1898年生、石原契行の妻)、窪田善八郎(1899年生、山形屋海苔店創業家に婿入り)。
- 孫:大橋進一、大橋松雄(松竹ロビンス元経営者)、大橋省吾二代目(幼名英太郎、東京堂社長)など
- 甥:山本留次(実業家)
- 妾:高橋いし(房の母。数え14歳で60代の佐平に落籍された)など[5]
関連文献
[編集]- 坪谷善四郎『大橋佐平翁伝』 博文館(1932年、1974年に増補改訂版が栗田出版会から刊行)
- 坪谷善四郎『大橋新太郎伝』 博文館新社(1985年、1937年成稿)
- 坪谷善四郎『大橋図書館四十年史』 博文館(1942年)
- 稲川明雄『龍(りょう)の如く〜出版王 大橋佐平の生涯』 博文館新社(2005年)