履中天皇
履中天皇 | |
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『御歴代百廿一天皇御尊影』より「履中天皇」 | |
在位期間 履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日 | |
時代 | 伝承の時代(古墳時代) |
先代 | 仁徳天皇 |
次代 | 反正天皇 |
陵所 | 百舌鳥耳原南陵 |
漢風諡号 | 履中天皇 |
和風諡号 | 去来穂別天皇 |
諱 |
大兄去来穂別尊 大江之伊邪本和気命 大兄伊射報本和気命 |
父親 | 仁徳天皇 |
母親 | 葛城磐之媛 |
皇后 | 草香幡梭皇女 |
夫人 |
黒媛 太姫郎姫 高鶴郎姫 |
子女 |
磐坂市辺押磐皇子 御馬皇子 飯豊青皇女 中磯皇女 |
履中天皇(りちゅうてんのう、仁徳天皇24年? - 履中天皇6年3月15日)は、日本の第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日)。『日本書紀』での名は去来穂別天皇。仁徳天皇の嫡子。
略歴
[編集]5世紀前半に実在したと見られる天皇。大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の第一皇子。母は葛城襲津彦の女の磐之媛(いわのひめ)。住吉仲皇子、瑞歯別天皇(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の同母兄。仁徳天皇87年1月、大鷦鷯天皇崩御。住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、翌年2月に即位して黒媛を立后。皇后との間には億計天皇(仁賢天皇)と弘計天皇(顕宗天皇)の父である磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ)を得た。その後は国史(ふみひと)や内蔵の制度を整えたものの、即位6年3月に病気のため磐余稚桜宮で崩御。『日本書紀』に70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。『古事記』は壬申年1月3日に崩御したとする。跡を弟の瑞歯別皇子が継いだ(反正天皇)。
名
[編集]- 去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
- 大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと) - 『日本書紀』
- 大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと) - 『古事記』
- 大兄伊射報本和気命(おおえのいざほわけのみこと) - 『播磨国風土記』
漢風諡号である「履中天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
「大兄」という名を持つ皇族は複数人存在するが、「大兄去来穂別」の大兄は、他の皇族とは異なり名前の先頭についているため、『古事記』の「大江」が正しく、オオエという地名のことを表してあると考えられる。
事績
[編集]大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の長男として生まれた。仁徳天皇7年、名代として壬生部が定められた。
仁徳天皇31年、太子になった。後に黒媛(葦田宿禰の娘、羽田矢代宿禰の娘の2説あり)を婚約者とした。
『日本書紀』『古事記』によると大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の崩御直後、黒媛に使者として遣わした弟の住吉仲皇子が自分こそ太子の去来穂別だと偽って黒姫を奪う事件が起きた。これが知られた住吉仲皇子は反乱を起こして去来穂別の宮殿に火を放った。太子は難波宮で酒に酔って寝ており、部下(阿知使主ら)に馬にやっと乗せて貰ったとされる[1]。太子は難波宮から大和へ向かい石上神宮へ入った。逃走の途中で霊験あらたかな少女に会い、伏兵が居るので遠回りするよう教えられた。そして無事到着した石上神宮で歌を詠んだ。
大坂に 遇うや嬢子を 道問へば 直には告らず 当岐麻路を告る
(おおさかに あうやおとめを みちとへば ただにはのらず たぎまじをのる)
埴生坂(現・大阪府羽曳野市野々上)で太子が目を覚まし、飛鳥山口(現・大阪府羽曳野市飛鳥)で少女と出会っていることから、太子一行は後世の竹内街道を東進している。この先、二上山の南麓ルート(竹内街道はこちらが正規のルート)と北麓ルートに分かれる。石上神宮へ急ぐ太子一行は北麓ルートの穴虫峠越えを選択しようとしているので、少女はそちらには伏兵がいるから南麓ルートの竹内峠越えで当麻へ回った方がいいと教えたことになる。穴虫峠の標高140mに対して、竹内峠は標高286mと高く、さらに南へ2倍も遠回りすることになったが、結果的にこれが太子一行を救った。
その後、住吉仲皇子は瑞歯別皇子(後の反正天皇)に誅され、去来穂別は翌年に即位した。
即位2年、磐余に遷都。蘇我満智(まち)・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのおおおみ)らを国政に参画させた。
即位4年8月、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、国内の情勢を報告させた。
即位5年、筑紫に課税しようとしたことで神の祟りを受けて皇后黒媛を失う。
即位6年正月、蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興した(『古語拾遺』には内蔵を興すとある)。『古事記』では阿知直(阿知使主)を初めて蔵官に任じたとある。
同年2月、讃岐国造の鷲住王を呼び寄せようとするが無視される。前年の筑紫の件も含め、天皇の西方への支配が行き届いていない面が見られる。 そして間もなく崩御。跡を弟の瑞歯別皇子が継いだ(反正天皇)。
系譜
[編集]10 崇神天皇 | 彦坐王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豊城入彦命 | 11 垂仁天皇 | 丹波道主命 | 山代之大筒木真若王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔上毛野氏〕 〔下毛野氏〕 | 12 景行天皇 | 倭姫命 | 迦邇米雷王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本武尊 | 13 成務天皇 | 息長宿禰王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14 仲哀天皇 | 神功皇后 (仲哀天皇后) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
15 応神天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
16 仁徳天皇 | 菟道稚郎子 | 稚野毛二派皇子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
17 履中天皇 | 18 反正天皇 | 19 允恭天皇 | 意富富杼王 | 忍坂大中姫 (允恭天皇后) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
市辺押磐皇子 | 木梨軽皇子 | 20 安康天皇 | 21 雄略天皇 | 乎非王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飯豊青皇女 | 24 仁賢天皇 | 23 顕宗天皇 | 22 清寧天皇 | 春日大娘皇女 (仁賢天皇后) | 彦主人王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
手白香皇女 (継体天皇后) | 25 武烈天皇 | 26 継体天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
[編集]- 皇妃:黒媛(くろひめ。葛城襲津彦の子の葦田宿禰の女、一説に羽田矢代宿禰の女)
- 皇后:草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ。応神天皇の皇女)
- 嬪:太姫郎姫(ふとひめのいらつめ、讃岐国造族の鯽魚磯別王の女)
- 嬪:高鶴郎姫(たかつるのいらつめ、讃岐国造族の鯽魚磯別王の女)
年譜
[編集]『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[2]。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。
- 仁徳天皇24年?
- 仁徳天皇の長男として誕生
- 仁徳天皇31年
- 1月、太子に立てられる
- 仁徳天皇87年
- 仁徳天皇崩御、住吉仲皇子の反乱
- 即位元年
- 2月、即位
- 7月、黒媛を立后
- 即位2年
- 1月、弟の瑞歯別皇子を立太子
- 10月、磐余に遷都
- 即位3年
- 11月、都を稚桜宮と名付ける
- 即位4年
- 8月、諸国に国史(ふみひと)を派遣
- 即位5年
- 9月、筑紫三神の祟りで皇后崩御
- 10月、皇后を埋葬。筑紫からの徴税を中止
- 即位6年
- 1月、草香幡梭皇女を立后、蔵職と蔵部を興す
- 2月、讃岐国造の鷲住王を呼び寄せようとするが無視される
- 3月15日、崩御
- 10月、百舌鳥耳原陵に葬られる
皇居
[編集]都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)。奈良県桜井市池之内に稚桜神社がある(同市谷にある若桜神社とは別)。神功皇后の宮と同名なので『古語拾遺』や『先代旧事本紀』では「後磐余稚桜宮」(のちのいわれのわかざくらのみや)として区別している。
陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)の名は百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)。宮内庁により大阪府堺市西区石津ヶ丘にある遺跡名「上石津ミサンザイ古墳(石津ヶ丘古墳)」に治定されている(北緯34度33分14.5秒 東経135度28分39秒 / 北緯34.554028度 東経135.47750度)。宮内庁上の形式は前方後円。墳丘長365メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
考証
[編集]松下見林は『異称日本伝』において、履中天皇を中国の『宋書』に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定し、新井白石も『古史通或問』で同じ説を唱えた[3](応神天皇もしくは仁徳天皇とする説もある)。『古事記』『日本書紀』には中国との外交の記録は無い。
脚注
[編集]- ^ 大久保正(翻訳)『古事記歌謡』(講談社、1981年)P174
- ^ 『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427
- ^ 安本美典『倭の五王の謎』講談社現代新書637 1981年 ISBN 4061456377 24~25頁
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 百舌鳥耳原南陵 - 宮内庁