大沢界雄
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大沢 界雄(おおさわ かいゆう、1859年10月19日〈安政6年9月24日〉 - 1929年〈昭和4年〉10月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[1][2]。
人物
[編集]本籍は愛知県[3]。1881年(明治14年)、陸軍歩兵少尉任官。のち陸軍大学校に入学し近衛工兵中隊付となり、 1888年(明治21年)陸軍大学校を卒業する。1890年(明治23年)陸軍輜重兵大尉に昇進し参謀本部第1局員に補される。以後、鉄道線区司令官(陸軍輜重兵少佐)、陸軍大学校兵学教官(陸軍輜重兵中佐)、大本営運輸通信長官(陸軍輜重兵大佐)、参謀本部第三部長、由良要塞司令官(陸軍少将)等を歴任。この間、明治三十六年陸軍始観兵式諸兵参謀長や、天長節観兵式諸兵参謀長なども務めた。1912年(明治45年)、陸軍中将となるも、2年後の1914年(大正3年)に、予備役編入となった。墓所は多磨霊園。
官歴
[編集]- 1881年(明治14年)12月24日 - 任 陸軍歩兵少尉[1][2]
- 1885年(明治18年)5月16日 - 任 陸軍歩兵中尉
- 1888年(明治21年)
- 1890年(明治23年)
- 1895年(明治28年)
- 1898年(明治31年)10月1日 - 任 陸軍輜重兵中佐[8]
- 1899年(明治32年)2月15日 - 補 陸軍大学校兵学教官[9]
- 1901年(明治34年)11月3日 - 任 陸軍輜重兵大佐[1][2]
- 1902年(明治35年)12月19日 - 明治三十六年陸軍始観兵式諸兵参謀長[10]
- 1903年(明治36年)1月24日 - 陸軍工兵会議臨時議員[11]
- 1904年(明治37年)2月10日 - 補 大本営運輸通信長官[1]
- 1905年(明治38年)1月20日 - 任 陸軍少将[1][2]
- 1906年(明治39年)11月13日 - 参謀本部付[1]
- 1908年(明治41年)
- 1909年(明治42年)
- 1911年(明治44年)12月27日 - 補 由良要塞司令官[1]
- 1912年(明治45年) 2月14日 - 任 陸軍中将[15]
- 1914年(大正3年)1月20日 - 予備役編入[1]
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1892年(明治25年)1月12日 - 正七位[16]
- 1895年(明治28年)11月15日 - 従六位[17]
- 1902年(明治35年)2月20日 - 従五位[18]
- 1905年(明治38年)3月2日 - 正五位[19]
- 1910年(明治43年)3月30日 - 従四位[20]
- 1914年(大正3年)2月20日 - 正四位[21]
- 勲章・記章
- 1890年(明治23年)3月10日 - 大日本帝国憲法発布記念章[22]
- 1905年(明治38年)11月30日 - 勲三等瑞宝章[23]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章・勲二等旭日重光章・明治三十七八年従軍記章[24]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官総覧』太平洋戦争研究会(編著)
- ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧・陸軍篇』外山操(編)
- ^ 『日本の鉄道 成立と展開』 113頁
- ^ 『官報』第1499号「叙任及辞令」1888年6月29日。
- ^ 『官報』第2211号「叙任及辞令」1890年11月11日。
- ^ 『官報』第2241号「叙任及辞令」1890年12月16日。
- ^ 『官報』第3587号「叙任及辞令」1895年6月15日。
- ^ 『官報』第4579号「叙任及辞令」1898年10月3日。
- ^ 『官報』第4685号「叙任及辞令」1899年2月16日。
- ^ 『官報』第5841号「叙任及辞令」1902年12月20日。
- ^ 『官報』第5867号「叙任及辞令」1903年1月26日。
- ^ 『官報』第7370号「叙任及辞令」1908年1月23日。
- ^ 『官報』第7672号「叙任及辞令」1909年1月25日。
- ^ 『官報』第7893号「叙任及辞令」1909年10月14日。
- ^ 『官報』第8594号「叙任及辞令」1912年2月15日。
- ^ 『官報』第2558号「叙任及辞令」1892年1月13日。
- ^ 『官報』第3717号「叙任及辞令」1895年11月16日。
- ^ 『官報』第5587号「叙任及辞令」1902年2月21日。
- ^ 『官報』第6505号「叙任及辞令」1905年3月10日。
- ^ 『官報』第8028号「叙任及辞令」1910年3月31日。
- ^ 『官報』第468号「叙任及辞令」1914年2月21日。
- ^ 『官報』第2022号「叙任及辞令」1890年3月31日。
- ^ 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。