大窪太兵衛
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(大窪光風から転送)
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 宝暦13年(1763年) |
死没 | 文政7年2月18日(1824年3月18日) |
改名 | 山本九十九、大久保九十九、大窪九十九、大窪多九郎、大窪太兵衛 |
別名 | 名:光風、号:薜茘庵 |
戒名 | 忠陳院岐山乙翁居士[1] |
墓所 | 長栄寺 |
主君 | 徳川宗睦、斉朝 |
藩 | 尾張藩 |
氏族 | 山本氏、大久保氏(大窪氏) |
父母 | 養父:大久保多四郎 |
子 | 養子:大窪昌章 |
大窪 太兵衛(おおくぼ たへえ)は、江戸時代後期の尾張藩士。本草学を好み、文化頃同好者と定期的に開いた集会は後に嘗百社に発展し、養子大窪昌章、孫大窪安治と3代に渡って活動に関わった。号の薜茘庵は3代に渡って用いられ、また通称太兵衛は孫安治も名乗っている[2]。
生涯
[編集]旧姓は山本[3]。大久保多四郎の養子となり、天明2年(1782年)6月17日跡目を継ぎ、馬廻組、10人扶持となった[3]。天明4年(1784年)5月苗字を大窪、天明8年(1788年)1月19日通称を多九郎と改めた[3]。
寛政元年(1789年)5月4日松平勝長[1]側詰として悦之助の世話を命じられたが、9月13日馬廻組に戻り、寛政5年(1793年)1月19日寄合組に転じた[3]。寛政7年(1795年)12月27日太兵衛と改名した[3]。
文化頃浅野春道、水谷豊文、岡林清達、柴田洞元、西山玄道、浅野文達、大河内存真等と本草会を開くようになったが、その後毎月7日は各人宅、17日は太兵衛宅が開催地とされた[4]。
文政7年(1824年)2月18日死去し、中区梅川町長栄寺に葬られた[1]。太兵衛等による集会は吉田雀巣庵、大窪昌章、伊藤圭介、神谷三園等を加えて博物会等の活動に発展し、文政10年(1827年)頃存真により嘗百社と名付けられた[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 磯野直秀、田中誠「尾張の嘗百社とその周辺」『慶應義塾大学日吉紀要 自然科学』第47巻、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2010年、15-39頁、CRID 1050845762334986240。
- 名古屋市役所『名古屋市史 人物編』 2巻、川瀬書店、1934年。NDLJP:1145366/263
- 『藩士名寄』第11冊