コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

大窪太兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大窪光風から転送)
 
大窪 太兵衛
時代 江戸時代後期
生誕 宝暦13年(1763年
死没 文政7年2月18日1824年3月18日
改名 山本九十九、大久保九十九、大窪九十九、大窪多九郎、大窪太兵衛
別名 名:光風、号:薜茘庵
戒名 忠陳院岐山乙翁居士[1]
墓所 長栄寺
主君 徳川宗睦斉朝
尾張藩
氏族 山本氏、大久保氏(大窪氏)
父母 養父:大久保多四郎
養子:大窪昌章
テンプレートを表示

大窪 太兵衛(おおくぼ たへえ)は、江戸時代後期の尾張藩士本草学を好み、文化頃同好者と定期的に開いた集会は後に嘗百社に発展し、養子大窪昌章、孫大窪安治と3代に渡って活動に関わった。号の薜茘庵は3代に渡って用いられ、また通称太兵衛は孫安治も名乗っている[2]

生涯

[編集]

旧姓は山本[3]。大久保多四郎の養子となり、天明2年(1782年)6月17日跡目を継ぎ、馬廻組、10人扶持となった[3]。天明4年(1784年)5月苗字を大窪、天明8年(1788年)1月19日通称を多九郎と改めた[3]

寛政元年(1789年)5月4日松平勝長[1]側詰として悦之助の世話を命じられたが、9月13日馬廻組に戻り、寛政5年(1793年)1月19日寄合組に転じた[3]。寛政7年(1795年)12月27日太兵衛と改名した[3]

文化浅野春道水谷豊文岡林清達柴田洞元西山玄道浅野文達大河内存真等と本草会を開くようになったが、その後毎月7日は各人宅、17日は太兵衛宅が開催地とされた[4]

文政7年(1824年)2月18日死去し、中区梅川町長栄寺に葬られた[1]。太兵衛等による集会は吉田雀巣庵大窪昌章伊藤圭介神谷三園等を加えて博物会等の活動に発展し、文政10年(1827年)頃存真により嘗百社と名付けられた[4]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 名古屋市 1934, p. 498.
  2. ^ 磯野 & 田中 2010, p. 33.
  3. ^ a b c d e 『藩士名寄』第11冊3丁
  4. ^ a b 磯野 & 田中 2010, pp. 24–25.

参考文献

[編集]
  • 磯野直秀、田中誠「尾張の嘗百社とその周辺」『慶應義塾大学日吉紀要 自然科学』第47巻、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2010年、15-39頁、CRID 1050845762334986240 
  • 名古屋市役所名古屋市史 人物編』 2巻、川瀬書店、1934年。 NDLJP:1145366/263
  • 『藩士名寄』第11冊