大窪安治

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大窪 安治
時代 幕末明治時代
生誕 文政9年(1826年
死没 明治26年(1893年10月8日
改名 大窪小新吾、吾兵衛、勘五郎、太兵衛
別名 号:薜茘庵
戒名 安治院明道義忠居士
墓所 長栄寺
主君 徳川斉荘慶臧慶恕茂徳義宜慶勝
尾張藩
氏族 大窪氏
父母 大窪昌章
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大窪 安治(おおくぼ やすはる)は幕末明治時代本草学者。尾張藩士、嘗百社社員。大窪光風大窪昌章に次ぎ薜茘庵3代目[1]

経歴[編集]

本草学者大窪昌章の長男として生まれた[2]。幼名は小新吾、後に小新吾兵衛、勘五郎[2]

天保13年(1842年)6月14日父の死により御馬廻組を継ぎ、弘化3年(1846年)12月4日小十人組、嘉永6年(1853年)2月26日赤麾となり、3月29日太兵衛と改称した[3]安政4年(1857年)7月23日新御番、安政5年(1858年)2月19日組目付加役、文久4年(1864年)1月16日小十人組与頭[3]明治2年(1869年)9月2日一等兵隊となるも、明治3年(1870年)11月12日兵制改革のため免職となった[3]

明治19年(1886年)3月15日中ノ町小塩五郎宅に三島豪山久米安政等と博物標本の展示会を開いて随意会と称し、4月8日浪越博物会と改称した[4][5]。明治26年(1893年)10月8日68歳で死去し、長栄寺に葬られた[2]。法号は安治院明道義忠居士[2]

逸話[編集]

小塩五郎菰野山へ採集に行き、馬に同乗して四日市を通った際、大柄なため看板に頭をぶつけて瘤を作り、小柄な小塩五郎を落馬させてしまった[6]

晩年病臥し、起き上がれないと知ったある日、家族に「私はもう死ぬ。今日は馴染みの美人の芸者を呼んで最期の楽しみを極めたい。早く呼んでくれ。」と頼んだ。家族が訝ると、「美人の芸者というのは長年集めてきた腊葉標本のことだ。早く箱の中から呼んでくれ。」というので、家族は承知し、標本を部屋の壁一面に貼り付けた。安治はこれを見て「何物の美もこれには及ぶまい。ああ、もう心残りはない。」と喜び、間もなく死去した[2]

脚注[編集]

  1. ^ 磯野 2010, p. 37.
  2. ^ a b c d e 名古屋市 1934, pp. 499–500.
  3. ^ a b c 『藩士名寄』
  4. ^ 西川 2005, p. 174.
  5. ^ 蟹江 & 西川 2006, p. 268.
  6. ^ 吉川 1958, p. 187.

参考文献[編集]

  • 磯野直秀、田中誠「尾張の嘗百社とその周辺」『慶應義塾大学日吉紀要 自然科学』第47巻、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2010年、CRID 1050845762334986240 
  • 吉川芳秋「草や蜻蛉を友とした小塩三居巣翁」『紙魚のむかし語り』吉川芳秋、1958年。 
  • 名古屋市役所名古屋市史 人物編』 2巻、川瀬書店、1934年。 NDLJP:1145366/263
  • 西川輝昭「愛知教育博物館関係史料の紹介と解説 (その1)」『名古屋大学博物館報告』第21号、名古屋大学博物館、2005年、doi:10.18999/bulnum.021.12CRID 1390853649426148736 
  • 蟹江和子、西川輝昭「愛知教育博物館関係史料の紹介と解説 (その2) : 当時の新聞記事に見るその足跡」『名古屋大学博物館報告』第22号、名古屋大学博物館、2006年、doi:10.18999/bulnum.022.11hdl:2237/9331CRID 1390572174449447296 
  • 『藩士名寄』第11冊第5丁