大窪昌章
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 享和2年(1802年) |
死没 | 天保12年10月8日(1841年11月20日) |
別名 | 通称:舒弥、舒三郎[1]、号:薜茘庵、蝸牛庵、蝸亭[2] |
戒名 | 昌章院文応卓成居士[1] |
墓所 | 長栄寺[1] |
主君 | 徳川斉朝、斉温、斉荘 |
藩 | 尾張藩 |
氏族 | 志村氏、大窪氏 |
父母 | 実父:志村吉昌、養父:大窪光風 |
子 | 大窪安治 |
大窪 昌章(おおくぼ まさあき)は、江戸時代後期の尾張藩士、本草学者。名古屋の本草学研究会嘗百社の一員で、天保4年(1833年)水谷豊文の没後同社を支えた[3]。茶道も好み、茶器を自作した[1]。
経歴
[編集]志村半兵衛吉昌の次男として生まれた[1]。文政4年(1821年)後半大窪光風の養子となり[2]、光風没後、文政7年(1824年)4月14日御目見して跡目を継ぎ、馬廻組、切米30俵となり、天保9年(1838年)9月12日大番組、切米50俵となった[4]。
天保12年(1841年)10月8日死去し[2]、天保13年(1842年)6月14日嫡子大窪安治[3]が跡目を継いだ[5]。
採薬行
[編集]- 文政4年(1821年)7月 越前国白山[6]
- 文政5年(1822年)3月頃 美濃国金華山[6]
- 文政6年(1823年)3月 - 4月頃 伊勢国多度山、東谷山[6]
- 文政9年(1826年)5月 - 6月 美濃国郡上郡八幡[6]
- 文政11年(1828年)4月 - 6月頃 尾張国竜泉寺山、東谷山[6]
- 文政12年(1829年)5月 伊勢国多度山、美濃国養老[6]
- 天保2年(1831年)6月4日 - 6月10日 近江国伊吹山(相原駒吉同行)[6]
- 天保4年(1833年)6月17日 - 6月18日 美濃国高須山、山崎山[6]
- 天保7年(1836年)4月24日 - 5月3日 美濃国錦織山、恵那山[6]
- 天保7年(1836年)7月27日 - 8月17日 加子母村、御嶽山、継母岳[6]
作品
[編集]- 『諸国採薬記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『伊吹山採薬記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『信州木曽草木産所記・同草類伊呂波寄』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『動植写真』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『大窪動物譜』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『大窪本草 動物篇』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『薜茘菴魚譜』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『大窪虫譜』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『諸国採薬記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『草木集』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『海獣図』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
大東急記念文庫にも自筆本等が多数所蔵されている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 磯野直秀「日本博物学史覚え書 Ⅸ」『慶應義塾大学日吉紀要. 自然科学』第28巻、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2000年9月、60-81頁、ISSN 09117237、CRID 1050845762324026368。
- 磯野直秀、田中誠「尾張の嘗百社とその周辺」『慶應義塾大学日吉紀要 自然科学』第47巻、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2010年、15-39頁、CRID 1050845762334986240。
- 名古屋市役所『名古屋市史 人物編』 2巻、川瀬書店、1934年。
- 『藩士名寄』第11冊